2018年10月28日の説教要約 「盲人を癒したイエス」

2018年10月28日の説教要約
『盲人を癒したイエス』   村岡貞海牧師
ヨハネによる福音書9:1-12>

中心聖句7節 ≪そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。≫


ヨハネ9章の全体は生まれつき目の見えない盲人の話になっています。
エスと盲人、またイエスと盲人の周りの人々との会話がなされています。
エス様に出会った盲人は、イエスに従う人となります。シロアムは「遣わされた者」という意味を持っています。イエス様を示唆していると思われます。盲人はイエス様の弟子となり、彼もまた遣わされた者としての歩みをして行きます。
光を見たことも感じたこともない日々を盲人は送っていました。誰がこの盲人が光を見るようになると信じることが出来るのでしょうか。
光の見えない日々を次のように適用することが出来ます。
人の人生には真暗く、絶望的で、崖に立たされているようで、危うい日々を通る時もあります。暗闇の時、絶望的な時、危うい時であっても、光なるイエスキリストが私と出会ってくださいます。
今日の聖書の箇所は生まれつきの盲人の話です。


1、神の業がこの人に現れるため。9:1-3
エスは困っている困難の中にいる人々を素通りされないお方です。
エスは生まれつき目の見えない人を見かけ、立ち止まられます。
9章全体を読んでみると20節で、次のような言葉があります。
両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。」確かに、生まれつき目の見えない人であることを両親の言葉から確認することができます。目の見えない人として、彼は仕事を持つことが出来ず、道端に座っていたのです。8節「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。この盲人についての弟子の質問を見ましょう。
当時の人々は病気の人を見ると、本人が罪を犯したからだと思ったり、ご両親が罪を犯したから病気になったと思ったりされていました。それでイエスの弟子たちもそのことをイエスに聞いていたのです。一般的な考えでした。そして今の私たちも同じです。悪いことが起こったり、病気になったりすると、誰かのせいでこんなことが起こったなど考えたりします。悪いことが起こると、私のせいだとか、あの人のせいだとか。親のせいで、あの子のせいでとよく聞くことがあります。
私たちは原因を探して、結果が良いと私が良くやれたから、結果が悪いと私が間違ったからなど誇ったり、悔やんだりするものです。
しかし、イエスの言葉は不思議であり、驚きであり、奇妙な言葉でした。
09:03イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
神の業がこの人に現れるためであると話されています。聞いたこともない言葉を聞きます。生まれつき目の見えない盲人に、神の業がこの人に現れると話されています。
エスの弟子にさえ、あの人の罪によって、親の罪によって、病気になったでしょうと言われる盲人でした。しかしイエスは神の業、神の栄光が現れると盲人を祝福して下さるのです。
私たちの理解の限界を超えて、私たちの思いを新たにしてくださいました。
私たちが存在する目的は何かと、思い起こして下さいます。
単純に不幸の原因だけを説明するのでなく、私たちの人生の目的は神様の栄光を現す者であると話されているのです。
生まれつき目の見えない盲人は神様の栄光を現す者として生きているのですとイエスは語ってくださいました。私たちの人生の目的、それは神様の栄光を現すことです。
そのことの為に私たちも世に遣わされる者になるのです。

2、イエスは遣わされた者。9:4、5
そのことが預言されているイザヤ42:7をご覧下さい。
42:07見ることのできない目を開き捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。もう一つの目的をイエスは語られます。
9:39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
エスキリストは、神が人となり、生まれつき目の見えない盲人の目を癒してくださる御業を行います。生まれつき目の見えない盲人は09:33「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と証しします。
人々の関心をイエスに向けさせています。イエスは世にいる間、世には真理の光が照らされています。世にいる間、神様の御業を遣わされた者として、励んでおられるのです。
エスは盲人に光を与えて下さいました。イエスは盲人に信仰を与えて下さいました。イエスは盲人が神様の栄光を現す者として下さいました。
次の箇所をご覧下さい9:6、9:7イエスによって、洗われて、肉の目も、霊の目も見えるようになりました。イエスは救いの光です。イエスの内に光があり、安全に歩み、守られます。
エスと盲人は遣わされた者です。遣わした神様の栄光を現しました。シロアム池の霊的な意味は、派遣と従順を象徴しています。私たちも神様の栄光を現す者として遣わされているのです。

三浦綾子さんは77年の生涯、病との闘いがありました。肺炎と脊髄カリエスの病により首下がマヒされ、ベットの上の生活でした。心臓の不整脈帯状疱疹パーキンソン病などで生涯を終えます。彼女を覚える人々は彼女の病のことも知っています。
彼女がまだ神様を知らない時、戦争と貧困と病に会い、生きる目標を持てず、全てむなしかったのですが、クリスチャンの友人が伝えてくれた、イエス様に出会って、御言葉によって愛と信仰によって生きる人となりました。死と背中合わせで生きる綾子さんは、それでもなお使命のために生かされていると証しした生涯でした。
三浦綾子さんは深い病の中でも「神が病むことを命じられるなら、…主よ、お従いします。」彼女は静かに祈ったそうです。今生かされている自分の『生』を忠実に全うしたいと祈っていたそうです。
私たちは主の栄光を現すために、命が与えられています。

3、目の見えるようになった盲人。9:8-12
目の見えるようになった生まれつき目の見えない盲人は、肉の目が見えるようになりました。彼はイエスの名前だけを知っていました。
目が開かれたことを喜び感謝する盲人にイエス様が再び出会って下さいます。
盲人の生涯はイエスを証しする生涯と変えられました。11節、17節、38節を見てゆくと、次のように呼び方が変わってゆくのです。
エスと言う方が(11節)、あの方は預言者です(17節)。主よ、信じます(38節)。と告白します。
弟子たちもニコデモもサマリヤの女などもイエスを、先生、ラビ、メシヤと告白します。
 イエスは私たちに光を与えて下さいます。
エスは私たちに信仰を与えて下さいます。
エスは私たちが神様の栄光を現す者として導いてくださる方です。