2021年12月5日の説経要約
「約束どおりに来られた救い主」 中道由子牧師
≪ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。≫
(ルカによる福音書2章1~7節)
1、救い主の預言が成就した
1節「そのころ」とは、キリストが誕生された頃のことです。その頃、皇帝アウグストゥスがローマを支配していました。
「皇帝アウグストゥス」は紀元前27年から紀元前14年までのローマ帝国の初代皇帝で、人口調査の勅令を出しました。
そして、ある学者は、この人口調査を終えるのに40年かかったとも推測します。
それほどローマ帝国が大きく、しかも皇帝アウグストゥスの権威が帝国の隅々にまで及んだことがわかります。
この人口調査の目的は、3つありました。
第一に、人頭税のためです。婦人や奴隷を含む全住民の数を調べて、各地の状況を完全に把握しようというものでした。
第二に、固定資産税のようなものを課するためであったと推測されます。つまり、二重に税金をかけられるためのものでした。
ヨセフはダビデの家系であったので、ベツレヘムが本籍地でした。そこに土地を持っていたようです。
第三に、調査を受けた所で、ローマ皇帝に対する忠誠を誓わされることでした。
ローマ皇帝アウグストゥスは、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれる時代を築いた人です。
人々はアウグストゥスを「救い主」と呼び、神と崇めました。
しかし、いくら立派な皇帝であっても、主なる神だけを王として崇め、信じるユダヤ人にとっては、非常に大きな屈辱であったようです。
このような状況の中、ヨセフとマリヤは、ベツレヘムに行かなければなりませんでした。
しかし、そのことはすでに紀元前700年代に預言者ミカによって預言されたことでした。
ユダヤ人にとって、約束の救い主がどこでお生まれになるかは、大きな関心事でした。
神は、その地は「ベツレヘム・エフラタ」であると仰せられた。
ミカ書5章1節「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」
エフラタのベツレヘムは、エルサレムの南8キロの丘陵地にあります。
後のイスラエルの王ダビデもここで生まれ、少年時代は羊飼いとして育った場所でした。
まことの王であるお方がダビデの家系から産声をあげた夜、み使いによって
ルカによる福音書2章11節「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げられました。
しかし、マリヤが聖霊によって身ごもり、その胎から聖なる神の御子が生まれるとの驚くべき知らせを御使いから告げられた地は、ガリラヤのナザレでした。ナザレでイエス様が生まれたなら、預言通りということにはなりません。
この地理的な隔たりは、どのように解決されたのでしょうか?
それは皇帝アウグストゥスからでた人口調査の勅令によって、預言はまさしく成就したのです。
神様はこの預言の成就のためにローマ皇帝の心を人口調査をするように動かされ、国を、人々を動かされました。
登録のために人々は皆それぞれ自分の故郷に帰ることを余儀なくされ、ヨセフも先祖の町ベツレヘムにいいなづけのマリヤを連れて帰り、短期間滞在することになったのでした。
そして、彼らがそこにいる間に、マリヤは男の子の初子、約束の救い主を産んだのです。
預言を成就なさる神は、今も歴史をご支配されています。
2、救い主の場所がなかった
5節の「身ごもっていた、いいなづけのマリア」という個所から、彼らは結婚式はできなかったのだろう、と推測します。
ヨセフは、ナザレから南のベツレヘムまでの約140キロの道のりを旅をすることになります。
ろばに乗ってお腹に響くような臨月を迎える妊婦にはなんとたいへんな旅だったことでしょう。
二人はベツレヘムに着くと宿を探したのですが、宿屋はどこもいっぱいでした。
「宿屋」は当時普通の民家に客を泊めてもてなす場所でもありました。
当時の下層階級の家は、たった一間だけの広さでありました。そのような所で妊婦が出産するのは無理でした。
むしろ馬小屋の方が、母子にとって安全な場所でした。マリヤとヨセフと生まれて来るイエスに残されたのは、家畜小屋でした。
イスラエルの学者によると、イエス様がお生まれになったのは地下室のような洞穴であった、と述べています。
家畜は洞穴の中にいたのです。日中は外で飼っている家畜を夜、暖を取るために洞穴の中に入れたのです。
マリヤとヨセフにとって、他の客がいるプライバシーもないごった返したところで出産するよりも、洞穴であっても、プライバシーが保たれ、家畜がいるだけの場所の方がどんなにありがたかったかわかりません。
貧しい中でも、神様の十分な配慮の中での出産でありました。
神様は、どんな困難な中でも、私たちにも最善の配慮をしてくださいます。
7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とありますが、これは現代のクリスマスも象徴しているのではないでしょうか?
部屋を英語で「room」と言います。でも、もう一つのroomの意味は「余裕」とも訳します。
クリスマスは楽しい時です。しかし、私たちの心に低くなり、貧しくなって来てくださった救い主をお迎えする心の部屋があるでしょうか?
イエス様は聖書の最後の手紙である黙示録3章20節で私たちを招いておられます。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
主は今も私たちの心のドアをノックしておられます。