2019年11月10日の説教要約  「神の御手は『はからずも』」

2019年11月10日の説教要約

                             「神の御手は『はからずも』」  中道由子牧師

 

≪ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの「あなたを一族のボアズが所有する畑地であった。≫

(ルツ記2章1~16節)                         

 

私たちの人生に、自分が計画していなかったのだけれどもたまたまこのことが起こったということがないでしょうか?たまたまこの人と出会い、一緒に仕事をすることになったり、今の伴侶と結婚に導かれることは考えられなかったなどです。あの時あのことが起こらなかったら神様を求めることもなかった、といういうこともあるでしょう。

人生は出会いです。そして、このルツとボアズもそうです。もしもベツレヘムに飢饉が起こらなかったら、ナオミはモアブの地に引っ越すことはなく、息子とモアブのルツは結婚することはなかった。もし、息子が死ななければ、ベツレヘムが回復して戻ってくるという決断をしなかった。そしてもしルツがどうしてもナオミについていくと決断しなければ、たまたまボアズの畑で落穂を拾うこともなかった。もし、ボアズの畑でなく、他の人の畑で落穂を拾っていたら、ボアズと結婚することもなかった。

もしボアズと結婚しなければ

マタイによる福音書1章5、6節「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベデを、オベデはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」

ダビデが生まれてくることはなく、この系図の最後は

マタイによる福音書1章16節「ヤコブはマリヤの夫ヨセフをもうけた。このマリヤからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった。」

エス様はこの系図でお生まれになることはなかった。ルツの人生に起こった「たまたま」(新共同訳)、「はからずも」(口語訳)には大きな神の計画が隠されています。

 

 1、ルツのひたむきな生き方

律法には、貧しい者の生計を守るために、刈り入れの後に落ちた穂を拾い集める権利が保障されていました。民の多くはその律法を無視しました。そのため、貧しい人々は畑の主人から冷遇され落穂を拾い集めることを断られていました。そんな状況で、モアブの女が異邦人として受ける困難を覚悟で畑に行きますが、「はからずも」舅の親戚であるボアズの畑に至ります。私たちの歩みは、このように神の絶対的な主権の元にあるのです。

神は、ベツレヘムでの新しい生活を始めるルツとナオミに対して、日々必要な食料を奇跡的に与えたり、家を与えたりするのではなく、ボアズを備えてくださいました。私たちは神に求めるとき、小さな物を備えてくださるよう求めますが、神は、私たちの次元とは全く違う、本質的な祝福を備えてくださいます。きょう食べる物、着る物を求めて祈る人々に、神は神ご自身を与えることを願っておられます。ルツにはそのことは全く見えていなかったのですが、ルツは置かれているところでひたむきに生きてゆきました。

ボアズが召使いに「あの若い女は誰の娘か?」と聞いた時、召使いはルツの様子を7節でこのように伝えています。「朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」

仕事の種類や価値よりも、仕事に臨む態度が大切ですね。ルツは、人の畑で落穂を拾い集めながらも、決して手を抜きません。知恵を働かせて怠けたりせず、わずかな休み時間を除いて、朝から晩まで熱心に働きました。私たちはつまらないように思える仕事を任された時、どんな心構えでそれをするでしょうか? ルツは、ナオミや彼女の夫エリメレクの親戚などに頼ろうとしないで、自分の手で働こうとしました。

この召使いがルツを褒めたもうひとつのことは、姑に尽くす態度です。彼女は家に帰ると早速、ボアズの所で食事の時、十分食べてから残しておいた炒り麦を取り出して、ナオミに与えました。ルツはナオミに対しても私が養っているというような態度ではなく、どこまでも従順でナオミの忠告を尊びました。ルツの姑孝行と親切に対して、彼女が受けた恵みは(ヘブル語の)「ヘセド」という、どんな事にも衰えることのない、神の無償の慈しみを象徴しています。

あなたがどこにいても、そこであなたが神様に従うなら祝福してくださるよ、と何度も話しました。私たちが車を運転する時、ナビの言う通り運転しなくても、ナビがそこからどう目的地に変更していくか考えてくれます。そんな風に神様はあなたがどこにいても神様の祝福の目的に導こうとなさるお方なのです。

 

 2、ボアズの厚意

ボアズは、若者からルツについて聞いて、良い印象を受けましたが、目の前でせっせと落穂を拾い集めているルツに少なからぬ好意を持ちました。ルツが落ち穂をたくさん拾いやすいように配慮してやります。一緒に食事をし、姑に持って帰る炒り麦をたくさん持たせます。ボアズが自分にしてくれる破格の恵みに心躍らせながら、姑の元に帰って行きます。ルツにとっては日毎の糧がこんなにも豊かに与えられただけで充分すぎることで、この先自分が結婚に導かれるとは思ってもみなかったのです。

旧約のこの時代、家を興してくれる人物と出会い、家を建て直すことができることは何にも代え難いヘセドの恵みでありました。 人の目には「はからずも」であっても神の配慮、摂理がここに隠されています。三浦綾子さんは「人と人の出会いは偶然ではない。神が会わせたいと思っている人同士を合わせられるのだ」と言われました。

ここで、「買戻しの権利のある親類」について触れたいと思います。ヘブル語で「ゴーエール」と言います。「ゴーエール」は、「贖う者」、「贖い主」、「買戻しの権利のある親類」の意味があります。近親者が、子供のない近親者のやもめと結婚して、その土地、財産を買い戻す、親類の義務を果たすのです。たとえば、貧しくなって、父祖から譲り受けた土地を売ってしまった人に代わって、近い親類の人がそれを買い戻す権利があるというのです。ナオミの夫エリメレクは土地を所有していましたが、その土地を継ぐ者がいないので、土地は売られて他人の手に渡ろうとしていました。ボアズは、その土地を買い戻す権利を持つ一人でした。

主はこのようにしばしば私たちのために、時、場所、人を備えて下さって、私たちを導いてくださいます。主は、私たちが人生の歩みの中で、最も重要と思われる選択をしなければならない時に、大切な人達と出会わせてくださいます。まず、父と母、友達、先生、妻や夫となる人、仕事の関係者―私たちの人生に大きな影響を与える人に出会わせてくださいます。

そして何よりも大切な出会いは、イエス・キリストとの出会いであります。

イエス・キリストはご自身の血を持って私たちを買い取ってくださったゴーエール「贖い主」であります。私たちの人生を建て直して下さる権利を持っておられるお方です。

 

3、ナオミの希望

 ルツはその日の落穂を持って姑の元に帰って行きました。大麦が1エパ(22リットル)もありました。異常な多さでした。ボアズとその家の者たちの厚意の結果でした。

姑は、その大量の大麦を見て、誰かが親切にしてくれたことを直感しました。

ルツがその日の出来事、特にボアズのことを話した時、ナオミは、ボアズが自分たちの近親者で、しかも買戻しの権利のある親類の一人であることを打ち明けたのです。

ナオミの人生も好転していきました。当人のルツよりもナオミは、この幸運をもっと身近に感じていたはずです。神が自分をつらい目に合わせられたと思っていたナオミでしたが、実は主がみ翼の陰に隠して守っていてくれている、その御手を見たのでした。

 私たちが最悪だと思っているとき、そこに主のみ翼は広げられていて私たちは守られている。そのことを知らされる時があります。ナオミがいなければ、ルツの幸せにもつながっていきません。神様は一人一人をご自身の大きな摂理の中で生かしていてくださいます。

神の「はからずも」の愛の御手が皆さんの人生にも備えられています