2023年12月3日の説教要約
「インマヌエル」 中道由子牧師
《それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。》(イザヤ書7章10~17節)
1、しるしを求めよ
この預言をしたイザヤは紀元前700年代の南王国ユダで活躍した預言者でした。
7章は紀元前735年頃始まります。ウジヤ王の孫であるアハズが王となりました。
当時の政治的状況は不安定です。
アラム(シリア)のレツィン王と北イスラエル(エフライム)のペカ王は、アッシリアに対抗して2国の間で同盟を結んでいました。
彼らはアハズが自分たちに加勢しなければユダを侵略すると脅しているのです。
アハズの助言者たちは、レツィンとペカに対抗するため、アッシリアの助けを求めるよう促しますが、イザヤはそれは災いだと見て取っています。
イザヤ書7章3節「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」
私たちも、何か困った事に直面すると、お祈りの前に、あわてて何かの行動を取ろうとしないでしょうか。どうしたらいいか。あの人に相談しようか。何かいい策はないかと。
しかし神は、静かにして祈ることを求められます。
人間のどんな企てや計画も、神が許されなければ決して成就することはありません。
アラム王レツィンと北イスラエルの王ペカには、ユダに侵略してアハズ王をその座から引きずり下ろし、別の王を立てるという計略がありました。
しかし、神は、かえってユダを滅ぼそうとする北イスラエルが滅びることになると預言されます。7節「主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない」と。
そして11節では、そのために「しるし」を求めなさいと語るのです。
その特別な申し出に対して、アハズは格好いい答えをするのです。
しるしは必要としません。主を試みるような事をしません、と聖いふりをして、神にしるしを求めることを拒みます。でも実は裏で手を回していました。
当座の危機を逃れるために神の代わりにアッシリアを選び、彼らに助けを求めます。
しかし、神よりも信頼するものがあるなら、結局、その地は荒廃します。
神様の助けなど必要ないというアハズに、イザヤは頼るべきお方は主のみであることを語り、その続きとして語られたのが14節のインマヌエル預言であります。
イザヤは、インマヌエルを語ったあと、「彼が、そうではないか」と期待したインマヌエル君がいました。アハズから生まれたヒゼキヤ王という説もあります。
しかし、イザヤは、やがてヒゼキヤに失望することになります。
預言が語られてから700年以上が過ぎて、この預言のお方が明らかにされたのです。
2、処女が男の子を産む
主はアハズがしるしを拒否すると、ご自分の選んだしるしをお与えになりました。
マタイによる福音書1章22,23節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
救い主が処女からお生まれになった。しかも主の天使がヨセフの夢に現れて
マタイによる福音書1章20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と語ったのです。
普通の夫婦の肉体的な交わりを通して受胎したのではない、ということです。
しかし、救い主は人間として生まれなければなりませんでした。
人としての肉体を持つ必要があったのです。
それは、人間の罪を贖うために十字架上で血を流すためです。
そのためにイエス様はきよく汚れのない人とならなければならなかった。
これを可能にしたのが聖霊を父とする誕生でした。
ヨセフを実際の父としなかった理由は、人類の代表としてアダムが負った原罪をイエスの人格が受け継ぐことがないためでした。
聖なる神の小羊であるイエス・キリストの血により私たちの罪が贖われるため、イエスの父は聖霊であり、肉体を持つため処女マリヤが選ばれたのです。
3、私たちのインマヌエルの神
ヨセフは天使が命じた通りその子をイエスと名付けました。
イエスという名前は旧約聖書に出てくる言葉で言うと、「ヨシュア」です。
ヨシュアというのは、「主なる神はわたしの救いだ」という意味の名前です。
しかし、当時の人々には、ごくごく当たり前の平凡な名前でした。
ですから、当時の周りの人々に、このクリスマスの出来事はちっとも知られていなかった。平凡な、どこにでも起こる一人の男の子の誕生としてイエス様は生まれました。
もうひとつのイエス様の名前は、「インマヌエル」です。
インマヌエルとして生まれたイエスは、人を罪から救うために、人と同じ姿になり、人間の世界に住まわれた、わたしのあなたの救い主です。
インマヌエルとは、目に見えない神様が共におられることであります。
目に見える人に頼るのではなく、目には見えないけれども、あなたの側にいてくださる神様がおられます。
あなたがどんな状況にあってもインマヌエルの神は「恐れるな」「私があなたと共にいる」と語ってくださるのではないでしょうか。
クリスマスの時だけではない、この一年も共に居てくださったインマヌエルの主に心からの感謝をささげましょう。