2023年12月17日の説教要約
「光の中に住むお方」 中道善次牧師
≪使徒言行録 22章6~16節≫
羊飼いたちは、どのようにして、幼子を神の子として受け入れたのでしょうか。
それをパウロが、イエスを主と認めたところからお話ししてまいりたいと思います。
1、迫害者パウロ
使徒 22:3 「わたしは、キリキヤ州のタルソスで生れたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
使徒 22:4 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に投じ、殺すことさえしたのです
パウロは、クリスチャンを迫害した。しかしパウロは、それを神のために正しい行為として行っていた。
ヨハネ 16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る
イエス様がおっしゃった「人を殺しながら、自分は神に仕えていると考える人物」は、パウロのことでありました。
パウロは、クリスチャンを迫害し、殺すことを正当化していたのです。自分は神のためにこれをしている。
クリスチャンは、ユダヤ教の異端と見なされていた。
使徒 24:14 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼ら(ユダヤ教徒)が『分派』(口語訳では異端)と呼んでいるこの道(イエスをメシアと信じる人たち)に従って、先祖の神を礼拝し、・・・
パウロのクリスチャン迫害の理由:彼らは異端だから取り除かなければならない。
かつてのパウロの姿を、私たちは反面教師として、受け止めて、謙虚になるべきであります。
2、パウロの回心の物語
パウロの回心の物語は、使徒言行録の中で3回、記されています。使徒9章、22章、26章です。
使徒言行録を書いたルカは、パウロの弁明の為に、彼の回心の物語を3回繰り返した。
パウロには、多くの反対者がいました。とくにパウロのことを厳しく批判する人々がいました。それはユダヤ主義者です。彼らがパウロのことを責めた一つの点は、彼は使徒ではない。使徒としての資格がない。
使徒1章で使徒の後継者として、マティアが選ばれる時、使徒となる基準が示された。
それは3年間イエスと行動を共にした者で、しかも復活のイエスに出会った人でなければならない。この両方の点でパウロには資格がなかった。
それに対してルカは、イエスと共に生活していなかったことはどうすることもできませんが、パウロは確かに復活のイエスと出会った。そのことを伝えるために3回もパウロの回心の経験を記したのです。
私たちも、イエスをこの目で見てはいません。しかしイエスを救い主として信じて、言葉に尽くせない喜びにあふれている。
1ペトロ1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
3、天からの光
では、パウロはどうして、光の中に現れたお方がイエスだと分かったのでしょうか?
旧約聖書を信じる人々は、神は近づきがたい光の中に住んでいることを知っていました。
テモ1 6:16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。
近寄り難い光とは、英語ではラディエント(radiant)、自らが光の放つ光源体。
イザヤは、幻の中で栄光の輝く主のお姿を見たのです。そして、自分は滅びてしまうと言いました。
神の顔を見て交わったと言われるモーセですが、出エジプト33章では、お前は私の顔を見ることは出来ない。その後ろ姿だけをみるのだと言われたのです。
サムソンの両親も、主の使いを見ました。そして彼らは主に供え物を献げました。
主が彼らの供え物を受け入れたのです。天から炎がくだったのです。彼らは、自分たちは神を見たから死んでしまうと思ったのです。
新約聖書でも、山の上でイエス様のお姿が変貌しました。どんな布さらしでも白くすることが出来ないほどの輝きの中にイエスが現れたのです。
パウロが知っている旧約聖書の神の姿で、イエスはパウロに現れたのです。
ここからクリスマスの物語との関連をお話しします。
クリスマスの物語で、羊飼いたちがイエスを拝みにベツレヘムに行く物語があります。
彼らにとって、「これは神の現れだ」と言うことが分かったのは、光でした。
ルカ 2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
彼らは神の栄光を見たのです。そして幼子を拝んでいる時にも、天の大軍が現れ、賛美をしたのです。
いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ (ルカ2:14)
それが「この赤ちゃんは神だ」と彼らが信じた理由だったのです。
4、聞きなれた声
パウロが、もう一つ、光の中におられるお方は神だと知った理由、それは神の声でした。
26章14節では、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。・・・」とヘブライ語で語りかけ声を聞いた。
パウロの名前はローマ人としての名前。
ヘブライ語の名前は、サウル。それがギリシャ語として表現される時、サウロになる。
聖書はそれを区別している。
使徒 9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
ギリシャ名では、サウロ。しかしヘブライ語で呼ばれる時、サウル、よりヘブライ語的に言うならシャウール。
これでパウロはピンと来た。
イエスはヨハネ10章で、自分と信仰者を羊飼いと羊に例えておられる。
ヨハネ10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 ヨハネ10:4 ・・・ 羊はその声を知っているので、ついて行く
パウロは、旧約聖書を信じる信仰者であった。祈りの中で、神の呼びかけの声を聞いていたのです。
光の中で現れたイエスは、神がパウロの名前を呼ぶ声を知っていたのです。
そしてそれがヘブライ語のシャウールだったのです。パウロは、声で聴き分けたのです。あなたは主です。
マグダラのマリアが、復活したイエス様を認識したのも声でした。
彼女は涙で目が濡れて、復活したイエス様を肉眼の目で見てもよく分からず、園の番人だと思っていたのです。ところがイエス様は、訳の分からないことを言っているマリアに、「マリア」と言われたのです。
そうしたら、マリアは分かったのです。そして「ラボニ」と言った。
クリスマスの物語でも同じです。
彼らは天使を通してですが、神の声を聞いたのです。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1:30)
羊飼いにも、「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ2:10)
ヨセフにも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1:20)と語られました。
「恐れるな」と語りかけてきた神の声を彼らは知っていたのです。