2019年3月17日の説教要約 「それは神です」

2019年3月17日の説教要約

          「それは神です」     中道善次牧師

                                        <創世記39章1~5節>

  

私たちの人生には様々なことがあります。それを人間的な視点で見ることもありますが、神の視点で物事を見る。そうすると物事の理解が変化してきます。そのようにして物事を見る目が変わってくると、私たちの内側に癒しが起こってきます。今までいやだった、辛かった、腹を立てた、そのようなことから解放され、心の傷が癒やされ、「それは神です」と言うことが出来るのです。

 

①   神が共におられる

ある牧師が、クリスマスの物語からの説教で、次のようなコメントをしておられました。

ルカ福音書2章のイエス降誕の物語です。救い主の誕生を聞いて、野原にいた羊飼いたちが、救い主を拝みに行くのです。彼らは幼子を探し、礼拝しました。そこから「私たちもまた羊飼いにならって、救い主を探しに出かけましょう。救い主を見出すまで諦めないようにしましょう」と勧められました。

これに対して、コメントを出した牧師は、「そのようなことを聖書は言っていない」と言われました。

私たちは、聖書の中で神様のなさったことに耳を傾けるより、私たちが「こうするべきです」「こうでなければなりません」という人間の行為に焦点を当て、また耳を傾ける傾向があります。

ヨセフ物語は、ヨセフが17歳の時から始まります。ヨセフは、父ヤコブから溺愛されました。それを妬んだ兄たちは、ヨセフを穴の中に投げ込み、エジプトに奴隷として売ったのです。

ヨセフは、ここでエジプトのポティファルの家で奴隷として働きます。創世記39:2~4を参照。

ヨセフはエジプトで、奴隷という立場ではありますが、家を管理する司になり、成功をおさめました。

何故ヨセフはエジプトで成功したのだろう。私はかつて次のような「読み込み」をしていました。

きっとヨセフは、穴の中で悔い改めたのだ。自分が今まで、仕事もせずに、兄の悪口を言っていたことを悔い改めた。

または、苦労知らずで育ったヨセフがエジプトで苦労した。そのお陰で、謙遜になり、努力をすることを身につけ、このように成功を治めるようになったのだ。

しかし私は5年ほど前に、気づいたのです。聖書は、ヨセフが悔い改めたことも、努力してその地位を得たとも、とても苦労したことも、何一つ語っていない。

聖書は、ただ一言「主が共におられたのだ」と告げるのです。ヨセフが「どうだったから」ということに焦点を当てていないのです。焦点は、主にある。主が共におられたことにあるのです。

私たちは、どうしても自分のあり方を見てしまう。しかしヨセフ物語を通して聖書が告げる祝福の秘訣は「主が共におられた」と言うことです。

 

②   夢を説くのは神です

二番目のこととして、夢を解くのは私ではなく神ですというメッセージです。

ある説教者が創世記40章14~15節から語った。

創 40:14 ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください。15 わたしヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです」。

ポティファルの家で忠実に仕えたヨセフ。無実の罪で監獄に入れられたヨセフ。それでもヨセフは文句一つ言わず、主が共におられ、獄屋番として仕えた。しかしそのヨセフの中にも自我があった。それが14~15節でした。この短い2節に、私、私、私と4回出てくる。口語訳では6回も「わたし」が出てくるのです。

説教者は、「主よ、私を用いて下さい。私です。私がここにおります」という態度でいる時、神は説教者を用いられなかった。

それはホーリネスのメッセージとも合致していました。己に死ななければならない。自我がある人を神様は、用いにくいのであります。

しかし創世記40:14~15の「わたし」の強調は、「私を用いて下さい」という自己顕示欲や自己実現だけではないのです。

もう一つの「わたし」、それは「自己憐憫」であります。自分をかわいそうに思うことであります。

ある書物では、自己憐憫に対して、次のように書いています。「自分を憐れむとき、私たちは自分自身を愛しているのであって、他の人を愛しているのではありません。自己憐憫はエゴ病の一種です。このことは神が私たちを懲らしめ、さばく時にいっそう明らかとなります。」

ヨセフは主張したのです。自分は不当に扱われている。自分は可愛そうな立場で、憐れみをかけていただいて当然だと。自己憐憫というかたちで「わたし」を繰り返したのです。

 

③   赦しは神のもの

フィリップ・ヤンシーの著作「この驚くべき恵み」の7章に「不自然な行為」があります。

赦しについて扱っている箇所でございます。人が誰かを赦すということは、ありえないことだ。それほどに不自然な行為だと言うのです。

痛みを感じれば感じるほど、赦すことは困難であり、赦した後もその傷が記憶の中に生き続ける。赦しとは不自然な行為であるのです。

ヨセフはその事例として、創世記のヨセフ物語を紹介するのです。

ヤンシーは、日曜学校で、ヨセフが兄たちと和解するくだりがどうしても理解できないと言うのです。

ヨセフは兄たちをスパイだと言う。そして投獄する。しかし次の瞬間は部屋を出て、声を上げて泣く。さらに兄弟の穀物袋に銀を返すのです。しかし同時に一人を人質に取り、一番下の弟を連れて来いという。一番下の弟がきたらまた歓迎する。しかしそのあと、弟が銀の皿を盗んだと捕らえるのです。

これらのことを指して、ヤンシーは、何ヶ月も何年も、こうした密計がダラダラ続いたと言うのです。そしてその理由は「赦し」と言う不自然な行為に自分をもって行くことができないでいるヨセフの姿を描いていると述べるのです。

そしてヤンシーは語るのです。恵みがついにヨセフに届いた時、宮殿の中に彼の悲しみと愛の調べが響き渡った。

ヨセフは、赦しについて、これは自分ではない、神だと告白するのです。創世記45章7~8節

ここでヨセフと兄弟たちは、涙の和解をするのです。過去の罪を悔いる必要はありませんと言うのです。しかし、「私はあなたたちを赦します」という言葉をヨセフは一度も語っていないのです。

代わりにヨセフが語ったのは、「私をここに遣わされたのは神です」と言う言葉であります。

創世記45:5と7と8では、それが3回述べられています。

創世記50章では、父ヤコブが死んだ記事が出てきます。その後、兄たちはヨセフが仕返しをするのではないかと心配したのです。それが創世記50:15~18です。

兄弟たちはここで、ゆるしてくださいとヨセフに願っているのです。

しかしここでもヨセフは一言も「ゆるす」という言葉を述べておりません。ここでも出てくるのは「神」であります。創世記50:19~21です。

創 50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代ることができましょうか。

創 50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

創 50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

ヨセフは、何故「赦す」と言わなかったのか。

ヨセフは知っていたのです。赦しは神だけがおこなうことのできることであって、人はそれをすることができない。だからヨセフは50:19で述べるのです。私が神に代わることが出来ましょうか。神に代わることが出来ないことを知っていたのです。

赦しは神のものです。イエスが、罪の赦しのために十字架の上で血を流してくださったのです。