2019年3月24日の説教要約
「イエスにお目にかかりたいです」 村岡貞海牧
<ヨハネ12:20-25>
中心聖句 12:24「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
今日の聖書の全体的な流れを見ると、数人のギリシャ人がイエスにお目にかかりたいです、とイエスの弟子のピリポに話しました。ピリポはもう一人の弟子アンデレに話して、相談をしたのでしょうか。ユダヤ人でない異邦人が、イエスと会うのは大丈夫なのかと思ったのでしょうか。
ギリシャ人たちは、子ロバに乗ってエルサレムに入る謙遜な救い主に直接会いたいと願っていました。遠い所から尋ねて来ました。
異邦人なので、距離や文化の壁がありましたが、彼らはイエスに会うことができました。イエスは彼らを見て、人の子が栄光を受ける時が来たと話され、一つの麦が死に実を結ぶことを話されます。
11章で、死んだラザロが生きて、人々がイエスを信じるようになりますが、嫉妬と妬みを持つようになった宗教指導者たちはイエスを殺そうとしています。
妨害と反対が強まり、イエスはサマリヤのエフライムの地方に行かれます。
過越し祭りになると全てのユダヤ人はエルサレムに行って礼拝をします。6日まえにベタニヤの町に行って、ラザロ兄弟と会いました。多くの人々がイエスと会うために、ラザロに会うために集まってきます。
しかし、宗教指導者はイエスだけでなく、ラザロまでも殺そうとしていました。 宗教指導者は誰よりも正義を持って、良いことをすべきなのに不義と、邪悪なことを企むのです。
今日の御言葉を通して、ユダヤ人と異邦人にイエス・キリストは福音を伝えられたこと。国を超えてイエスを尋ね、信じ、礼拝することを見ることができます。全世界の人々に福音が宣べ伝えられているのです。福音なるイエスは、はっきりとご自分を現し、ご自分が一つの麦が地に落ちて、死んで実を結ぶことを語ってくださいます。
そして、私たちに永遠の命に生きる道を示してくださっています。
1.イエスにお目にかかりたいです。20-23節
当時はユダヤ人と異邦人には厚い心の壁がありました。
神殿には異邦人の庭、女の庭、ユダヤ人の庭がありました。庭と庭の堺には壁があり厚く高いもので超えることは出来ません。
ユダヤの宗教指導者は異邦人を差別していました。異邦人が神殿に入ることは決して許されませんでした。異邦人を遠ざけ、卑しく思っていました。
宗教指導者は異邦人に神様を伝えようとしていませんでした。又、近寄ることもしませんでした。
使徒行伝の8章からは異邦人伝道が始まります。
しかし、異邦人伝道のためには超えるべき文化的な壁がありました。
ユダヤ人達がどのように異邦人を避けていたのかをみることができます。
10章でペテロが夢を見ます。汚れた獣が降りて来て食べるようにと言われました。拒むペテロに声が聞こえました。「神様が清めたものを、聖くないなどと言ってはならない。」 それによって、ペテロも異邦人であったコルネリオを迎えて、神はどんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになったことを話して、イエスキリストによって与えられた、平和の福音を宣べ伝えます。
コルネリオは神様を信じる人であり、敬虔で絶えず神に祈りをしている、人々を愛して仕えている人でした。ペテロを通して、洗礼を受け交わり、全ての家族の人々が救われます。このことを通して異邦人への伝道が正式に認められたのです。
それより前の出来ごととして、イエスの知らせを聞いてエルサレムに尋ねてきたギリシャ人がどのような姿勢で、どのような信仰で、イエスにお目にかかりたいです、と話しているのでしょうか。
数人のギリシャ人たちは、イエスキリストの福音を異邦人に伝える、イエスを紹介する人々になります。彼らに出会ってくださることは、ユダヤ人だけではなく、全世界に宣べ伝えられることの大きな意味を持っています。
イエスは23節で人の子が栄光を受けるときになったと話します。
数人のギリシャ人たちによって、世界中に福音が伝えられて行きます。コルネリオが救われ、家族がその国が救われました。私たち一人が信じることで終わらないのです。
イエスに出会う私たちを通して、神様の祝福が流れて行けるのです。
2. 一粒の麦が死んで実を結ぶ イエス24節
イエスキリストご自身のことを話しされます。そして、ご自分の死を話されています。一粒の麦の秘密を話してくださいました。イエスご自分の死によって、豊かな実を結ぶようになると約束して下さいました。
イエスはこのようにご自分の命をくださいました。イザヤ53:3-5
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われる者のように、彼は侮られた、われわれも彼を尊ばなかった。5しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられた。われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずからが懲らしめをうけて、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。
主イエスキリストの命を私たちに惜しみなく与えてくださいました。
一つの麦となって豊かな実を結んでくださったイエスを深く黙想する時間が私たちの日々の中に必要ではないでしょうか。神様の愛の深さ高さ広さ、人知をはるかに越える豊かさが皆さんの上に注がれますことをお祈りします。
3.命が与えられる道
自分の命とはプシュケ神様の御心とは関係がない人間の本能的な欲望を意味します。永遠の命とはジョエ神様の命を意味します。
イエスの御言葉に従うことは、私たちに苦難なように思われますが、逃げず全てに犠牲をする覚悟で神様の真理に付いて行くときに、自分だけではなく、多くの人々を永遠の命へと導くことができます。
テトス書を2月リビングライフで黙想しました。良きわざをする神の相続人という言葉が心に響き続けました。クレテ島の町に教会が建てられました。
しかし、テトス1章クレテ人たちは作り話に耳を傾け、腐敗した環境に身を置き、清さを求めず、その知性も良心も汚れてしまっているのです。テトス2章 パウロはクレテの教会にテトスを遣わしました。テトスはコリント教会の真実な働き人でした。クレテ人に神様の正しい教訓を教えました。そして戒め、勧めています。テトス3章7節これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
良きわざの相続人となるように。どのように変えられていたのか見ることができます。 良きわざを行える力がない人々でした。しかし変えられていたのです。
それは一粒の麦になって、私のために、私たちのために死なれたイエスの福音によって変えられて行くのです。御言葉と祈りがなくては、毎日心が揺れ動き、疑う自分がいます。
しかし、御言葉、主イエスキリスト、福音の中にいる時、良きわざに励む者には神様の計り知れない祝福と主の栄光が与えられることが示され、神様のメッセージとなって迫ってきます。
祈りを持って、感謝を持って、人々に与える、分かち合える人々には、彼らしか味わえない永遠の命の平安が、喜びが与えられます。
イエスは死んで私たちに豊かな命を与えてくださいました。
イエスを知らないで、受ける苦難は耐えがたいものですが、イエスを知って、イエスと共に担う十字架は、祝福であり喜び、我らの誇りとなります。 私たちの罪を背負い、謙遜で柔和なイエスと共に、どんな苦難も歩めるからです。
主イエス・キリストは、私たちを永遠の命へと導いてくださるお方です。
イエスにお目にかかりたいです。日々捧げる私たちの祈りです。