2022年10月16日の説教要約 「一粒の麦」

2022年10月16日の説教要約

    「一粒の麦」   中道由子牧師

《はっきり言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。》

                                    (ヨハネによる福音書12章20~33節)  

 

1、イエスの時

時はユダヤの最大の祭りである「過越祭」の時でした。

各地から巡礼者たちが集まって、ユダヤ人ばかりではなく、ギリシャ人の巡礼者たちが多く集って来ました。

彼らは、弟子のフィリポの所に来て、キリストにお会いしたいと頼んでいるのです。

しかし、フィリポがアンデレと一緒にイエス様のところにギリシャ人が会いに来ていることを知らせに行った時、主イエスの様子は違いました。

22章「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。・・・』」

今まで「わたしの時は来ていない」と言っておられた主が、「時が来た」それも「栄光を受ける時がきた」と言われたのです。

しかも、ギリシャ人が会いに来た時に、そう言われたのです。

これはいったいどういうことでしょうか?

この異邦人であるギリシャ人が主のもとに来たことは、主が十字架にかかる時が来たしるしであると主ははっきり断言されたのです。

時ということを考える時、私たちの短い人生にもあらゆる場合に「時」があります。

コヘレトの言葉3章1節「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

生まれる時、死ぬ時、泣く時、笑う時、戦いの時、平和の時。

しかし、私たちにはイエス様のようにギリシャ人が来たから死ぬ時が近づいているというようなしるしをもって時を知ることはないように思います。

私たちは後になってあの時が「時」だったと気づかせていただくことがほとんどであると思うのです。

そんな私たちはこの人生の「時」をどのように生きたらよいのでしょうか?

ダビデ詩篇31篇15節(口語訳)で「わたしの時はあなたの御手にあります。」と歌っています。

私たちの人生で神の助けを必要とする時、「主よ、いつですか?」「いつ回復しますか?」「いつ助けてくださるのでしょうか?」と祈る時、主の時があることを覚えたいと思うのです。

 

2、死がもたらす実

 収穫の秋を迎え、どこでも稲刈りの作業をします。

イスラエルで収穫される麦は脱穀されておいしい大麦、小麦になるのですが、ここで

主イエス様は一粒の麦という種に例えてわかりやすく、ご自身の十字架の死の意味を説明しておられます。

一粒の麦が死んだならば、これは作物の原則です。

一粒の麦が畑にまかれない限り、その持っている生命が地面の中に吸収され、芽が出て来る事がありません。蒔かれなければ、何時までたっても一粒です。

蓮(はす)についてよく知っている、蓮博士という方がいます。何万年も前の蓮の種がそのままある時、それは何年経ってもそのままです。でもそれを畑にまくとき、種は死にますが、その命が吸収され、芽が出て花が咲くのです。

 地に落ちることにより、そこから芽が出てより多くの収穫となっていく真理であります。

私達も一粒の麦となることが出来ます。クリスチャンが、一粒の麦となるとは、自分さえよければよいのではない、自分のやりたい事をやることではない。

献身的な犠牲の生き方です。

 人間関係においても、自分が死ぬと、相手との間に平和が生まれます。

自分という種がいつまでもいようとすると、自己主張が絶えない。相手を裁き、退ける。そのことを主イエス様は25節において「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と言われたのです。

 

3、ヨハネゲッセマネ

 ヨハネは他の福音書が書いているように、ゲッセマネの園の主の祈り、主が血の汗を流すようにして苦しんで祈られた様子を書きませんでした。

それはヨハネが神の栄光に焦点を当てて書いているからです。

「わたしをこの時からお救いください。」と祈っておられた主イエスの祈りが「わたしはまさにこの時のために来たのだ。」という確信の祈りに変わり、「父よ、御名の栄光を現してください。」と十字架が神の栄光が現わされる最高潮であることを断言して、決意を固められます。

あの主イエスに会いに来たギリシャ人たちは主に会ったかどうかは分かりませんが、お言葉をもらいました。

一粒の麦として地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ、と言うお言葉、自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る、というお言葉、私に仕えようとする者は、父はその方を大切にしてくださる、というお言葉です。

彼らは主の尊いお言葉と真理を聞きました。

そして、主が十字架にかかられ、復活され、天に帰られてから聖霊が注がれます。

その時多くの異邦人が、ギリシャ人も母国の言葉で福音を聞き、主を信じたのです。

そのために主は一粒の麦となられたのです。