2022年10月23日の説教要約 「キリストに似た者になる」

2022年10月23日の説教要約

                  「キリストに似た者になる」 照内幸代牧師

 

「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし御子が現れるとき、御子に似たものとなるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」

                           (ヨハネの手紙一3章2節)

(1)神の子とされる

1節「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい」とありますが、聖書が書かれたギリシャ語を直訳すると、「見なさい、御父が私たちにどんな愛を与えられたか」とヨハネは問いかけています。御父の愛とはどんな愛でしょうか。それは「私たちが神の子と呼ばれる」愛でした。私たちは神の子と呼ばれる者であるし、また事実神の子であるのです。神様は本気で私たちを無条件に愛されようとしたのです。その証拠がイエス様の十字架です。皆さん、もし神様によってゆるされない罪が存在するとしたら、それは神様を否定することだとは思いませんか。ゆるしてくださる方を拒絶するなら、私たちはゆるされようがなくなるからです。神様のもっとも大きな拒絶の出来事こそ、十字架だとは思いませんか。私たちが神様の愛を一切合切否定した出来事が十字架です。でもイエスさまは罪の結果である死を打ち破ってくださいました。このイエス様の十字架の勝利があるので、私たちは神の御前でゆるされない罪なんて一つもなくなったのです。神様と私たちの間にあった、大きな溝がイエス様の十字架によって埋められて、私たちは神様に近づくことができるようになったのです。私たちの父なる神様は、私たちを子として、私たちが父なる神様の敵であったときにそのようにしてくださったのです。ヨハネは言いますv1。これがどんなにすばらしい愛か。事実、私たちは神の子どもとされている。このことから、私たちは無条件の愛と赦しを受けているということが分かるのです。

 

(2)キリストに似た者になる

次にヨハネは、神の子どもとされた私たちはどうなるのかということを語っていますv2。神の子となった私たちがどうなるのか、それはキリストに似た者になるということです。その何よりの証拠が、私たちが既にキリストの似姿を生きているということではないでしょうか。私たちはイエスさまに出会う前、自分の欲のままに好きに暮らし、他人も自分も傷つけて生きて来たのです。しかし聖書を通して、教会を通して、クリスチャンたちを通して、私たちはキリストの似姿に出会いました。直接キリストを目にしたわけでも、その声を聞いたわけでもありませんが、イエス様の教えに触れ、イエス様の祈りを学び、イエス様の愛を受けたとき、私たちは変えられました。イエス様を知らなかったときの自分と、知ってからの自分では雲泥の差があると自分で分かるのです。イエス様を直接見ていない今でも、イエス様の似姿を学んでそれに歩もうとするとき、もう自分が光の中を歩まされているということに気付きます。今、地上の不完全な自分であってもすでにこれほど変えられているとしたら、私たちがイエス様を直接見るとき、もっと大きく変えられるというのは当たり前の話ではないでしょうか。自分がこの地上で変えられたということの、さらにもっと大きな変化が、イエス様の再臨のときにはあるんだということです。