2022年3月13日の説教要約 「初めに言があった」

2022年3月13日の説教要約

                         「初めに言があった」 中道由子牧師

                《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。》

                                                       (ヨハネによる福音書1章1~5、14節)

  

 1、言は行い     

 ヨハネによる福音書では言葉が「言」の一字で現されています。

これはどこにでもある言葉というのではない、固有名詞です。ギリシャ語ではロゴスという語ですが、これは神の独り子であるイエス・キリストご自身をあらわしています。

ギリシャ語からの翻訳の折、ルターは「はじめに言があった」と翻訳したそうですが、英文学で有名なゲーテが書いた「ファウスト」という劇で、博士ファウストがこのヨハネ福音書のこの箇所をどう翻訳しようか悩むところがあって、ファウストはどうしてもルターの「はじめに言があった」のこの訳が気に入らず、いろいろと言い換えていくうちに「はじめに行いがあった」という翻訳に到達します。言葉と行いではずいぶん違う、しかしロゴスという言葉は普通に使う薄っぺらなものではないということです。

創世記1章においても神様は言葉によって天地をお造りになられました。

言葉によってすべての物ができる、創造の力が伴う、命をもたらすのです。

よく申命記に出てくる「聴け、イスラエル!」という言葉の「聴け」の中にはただ聞くだけでなく、「聞いて従う」という意味が入っていると言われます。

同じようにこの「言」には「行いを伴う言葉」の意味合いがあるように思います。

よく「言っていることと、やっていることが違う」ということを聞きます。

わたしたちはどうでしょうか?私たちのお金の管理、仕事の仕方、家庭生活の在り方は神様の前に言行一致しているでしょうか?

私たちの霊的生活に世の中との妥協があれば、このくらいは誰でもやっているという罠にかかりやすいです。また「言うは易し、行うは難し」、「誰でも言うことは簡単に言えるけれど、実際行うことは難しい」です。

エス様もマタイによる福音書の中で「あなたがたは天を指しても、地を指しても、神殿を指しても誓ってはならない」と言っておられます。

私たちはその点において不完全なのです。

神様は私たちに口先だけでなく、行いと真実が伴う生き方を求めておられるのではないでしょうか。

 

2、言は知恵

このヨハネ福音書1章の言の翻訳でまたたいへん興味深い解釈をした方がおられます。

ずいぶん前に三浦綾子さんが書かれた「海嶺」という小説が映画になりました。

紀州の宝順丸船が1832年に遭難して漂流した結果、日本人の岩吉、久吉、音吉はアメリカ西海岸フラッタリー岬にたどり着きます。そして、彼らはいろいろのつらい体験をして世界を周って英国からマカオに連れて来られ、日本に帰ろうとしますが鎖国が解けていない時代で日本を目前にして断腸の思いで、諦め、引き返していく物語です。

1835年この三人をマカオで迎えたのは、マカオで伝道に励んでいたギョツラフというドイツ人の宣教師でした。言葉の才能に恵まれていた方で、この三人にたいへん関心を持って、彼らから日本語を学び、ヨハネによる福音書ヨハネの手紙を翻訳しました。

彼はこのヨハネによる福音書の最初を「はじまりにかしこいものござる。このかしこいもの、ごくらくとともにござる。」と訳したのです。

特に14節の「言は肉となって、私たちの間に宿った。」は「賢い者は人間になられ、私どもとともにおった」と訳されています。

言なるイエスキリストを賢いものと訳させているところが大変優れていると言われています。私たちは賢い知恵ある言葉を語りたい者です。

しかし私たちは言葉において過ちを犯しやすいものです。

箴言の中の多くは知恵者であるソロモンが書いたと言われます。

そしてそこにはたくさんの言葉に関する注意事項が書かれている人生の処方箋でもあります。知恵ある言葉の遣い方として(15;23)「人は口から出る好ましい言葉によって喜びを得る。時にかなった言葉は、いかにもよいものだ。」

あの時、あの人に声をかけてもらった言葉が忘れられないことがそれぞれにあると思いますが、それ以上に、イエス様の言葉には心を癒す力があります。

コロナ下の中ですが、み言葉に深く根差した日々を大切にしましょう。

 

3、言なるキリスト

 ヨハネはキリストを言なるお方として受け止めました。

主は、ヨハネによる福音書にでてくる人たち、真理を求めているニコデモに夜会い、諭してくださり、心傷ついているサマリヤの女に近づいて声をかけられた。

病気の人に「治りたいのか?」と声をかけられ、肉親を亡くしたものに「私を信じるものはたとい死んでも生きる」と宣言されました。

また、ヨハネは「言葉」という文字もよく使っています。

ヨハネはイエス様が語られた言葉を大切に記録しております。「私の愛のうちにとどまりなさい。」と言われたイエスさまは「あなた方は互いに愛し合いなさい」と命じられ、それはどういうことなのかを示すように自ら弟子たちの足を洗われ、罪の身代わりとして十字架にかかり、愛を示してくださいました。

ですから「その友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と語られたイエス様の言葉は、ヨハネ自身の信念となり信仰となって、ヨハネ第一の手紙3:16において自ら「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」と訴えかけております。

この言なるキリストに私たちもとどまり、生かしていただきましょう。