2022年3月6日の説教要約 「聖なる、聖なるお方」

2022年3月6日の説教要約

                           「聖なる、聖なるお方」  中道善次牧師

               ≪イザヤ 6章1~6節≫ 

 

今日とりあげますヘブライ語は、カドーシュです。これは「聖」「聖なる」という意味であります。

それが語られているのが、イザヤ6:3であります。

この箇所で、聖なる(カドーシュ)と言う言葉が三回繰り返されています。

三つの繰り返しには、二通りの理解があります。

一つは、三位一体の神を表す。父なる神、御子なる神、聖霊なる神のお三方をそれぞれ聖なる御方として賛美することであります。

もう一つは、カドーシュと言う言葉を三つ重ねることで、聖である神ご自身を表すという理解です。

旧約聖書で、神様のお住まいの場所を「聖所」と言います。これは、ヘブライ語でカドーシュです。

さらに聖所を垂れ幕で区分して、垂れ幕の奥に契約の箱を置きました。英語では、holy of holy と呼びます。日本語では至聖所であります。それがヘブライ語では、カドーシュ、ハ・カドーシュです。契約の箱が置いてある至聖所に神が住んでおられる。聖なる場所です。

そしてカドーシュを三つ並べる。英語で言うなら、good,better,bestの最上級になります。それは最も聖なるお方、神ご自身を指すのです。

イザヤが、神様を見たというのはそういうことです。カドーシュ、カドーシュ、カドーシュとは、神様ご自身を表す言葉であります。

 

1、輝く栄光の中に住む神

イザヤがここで見た幻は、「聖なる神」のお姿でありました。

そこに登場して「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美する天使はセラフィムです。

セラフィムには6つの翼があり、それぞれの翼で、顔を覆い、脚を覆い、二つの翼で飛んでいたとあります。

顔を覆いとは、輝く神のお顔を見ることがないようにする姿です。

「聖なる、聖なる、聖なる」に続いて出てくる言葉は、「栄光」という言葉です。

栄光を表すヘブライ語はカーボードです。神の栄光が現れるときに、輝きが起こる。それをシェキーナーの栄光と呼びます。

シェキーナーは、臨在という意味です。シェキーナーという言葉そのものは聖書には出てこないのですが、神様の臨在が現れるとき、シェキーナーの栄光が現れる。聖書の中には、輝きにうたれたという記事がいくつも出てきます。

シェキーナーの栄光が意味する内容は、「輝きを放つ」ことです。

その一つの事例が、使徒言行録9章です。ダマスコに行く途上で、パウロが光り輝く主イエスに出会って、倒れた姿であります。パウロは強い光に当てられて三日間、目が見えなくなったのです。パウロがシェキーナーの栄光に触れたのです。

もう一つの事例は、変貌山の出来事です。イエスのお姿が、この地上に来る以前の栄光の包まれた姿に一瞬ですが戻ったのです。

マコ 9:3 衣は真っ白に輝いた。この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。

衣の白さ、顔の輝き、これらはシェキーナーの栄光と呼ばれるのであります。

セラフィムは、足も覆っていました。ここから思い起こすのはモーセが神様に出会ったときであります。

シナイ山で、燃えているのになくならない火をモーセは見たのです。

それは聖なる神様の臨在に触れた瞬間です。

その時、モーセは神様から命じられたのです。ここは聖なる土地だ。足から靴を脱ぎなさい。

同じ事をモーセの後継者であるヨシュアも経験しました。ヨシュア5:13~15です。

ヨシ 5:15 主の軍勢の長はヨシュアに答えた。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。

私たちがカドーシュという言葉から受け止めたいことは、神様は聖なる御方。私たちが近づくことが出来ない御方であります。しかしそれは単なる恐怖体験ではないのです。

神様の聖さを認める大切さを私たちに教えるのです。

では、聖い神様私たちが近づくことは許されないのでしょうか。イザヤは述べています。

イザ 57:15 高みにおられ、崇められ、永遠におられる、その名が聖である方がこう言われる。

私は高く、聖なる所に住み、打ち砕かれた人、低められた人と共にいて

低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。

聖く、高い所に住む神様ですが、私たちが、謙るなら、一緒にいて下さる。私たちに命を吹き込んで下さるのです。神様を畏れ敬い、へりくだる心を持つことが大切です。

そのような心を持つ者に、優しい神様が一緒にいて下さるのであります。

 

2、主に聖なる者

カドーシュで、出エジプトの説教の時にも紹介しました。

それは大祭司の姿です。その額には金のプレートがあり、カドーシュ・ロー・ヤハウエとあります。

カドーシュは聖、ローは、~に向かって、ヤハウエは、主です。

「主に聖なる者」であります。

東京聖書学院のチャペルに行きますと正面の壁に、左から右に、Holiness Unto the Lordという文字が大きな英語で書かれています。

大祭司アロンのターバンのところに金のプレートを巻く。その文字が、そうなのです。

主に仕える者の姿は、カドーシュ・ロー・ヤハウエであるのです。

聖とは、「分けられる」という意味があるのです。ここでは、神のために分かたれる。神様に仕えるために区別される。旧約の祭司が、献身者が奉仕のために分かたれた者であるのと同じなのです。

それは神様の働きのために選び分かたれ、神様の働きに専念する「聖別」であります。

教職者でなくても、主から託していただいた奉仕のために、私を聖めてください。真心を込めて行わせて下さい。そのような祈りが、大切であります。

 

3、あなたの家族は聖い

聖は、神のものとなることだと申しました。

私はコリント人への第一の手紙を読みながら、不思議に思った事がありました。

パウロは、コリント教会の人々に、結婚について次のように書いています。

コリ1 7:10 さらに、既婚者に命じます。妻は、夫と別れてはいけません。こう命じるのは、私ではなく、主です。

コリ1 7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に暮らすことを望んでいる場合も、離縁してはいけません。

コリ1 7:21 召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。

ここから理解することが出来るのは、奴隷という立場からの解放を求めた人々がいたことであります。そしてもう一つの可能性は、クリスチャンになった女性には、ある願いがあったようです。

未信者の夫を持っている妻から、「あなた、私と離婚して下さい。あなたとはもう関係を持ちたくありません。汚れますから」。そのようなことを願ったことが、今読んだ1コリント7章10節と13節の言葉から想像することが出来ます。

それに対するパウロの言葉を聞いて下さい。

コリ1 7:14 信者でない夫は、妻によって聖なる者とされ、また、信者でない妻は、夫によって聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

ここでパウロが述べている、夫が聖なる者となり、妻が聖なる者となり、子どもが聖なる者となるというのは、どのような意味でしょうか。

調べてみて驚きました。聖なる者と言う言葉は、ギリシャ語のハギオスで、ヘブライ語のカドーシュであります。

「聖なる者」という言葉は、「神さまのものである」という意味であります。

パウロは凄いことを、思い切ったことを言うのです。

そこには契約と言うことが関係していると思います。

神様を信じることは、神様の契約を結ぶことであります。

そして夫婦となると言うことも契約を結ぶことであります。

ですから次のようなことが言えるのです。

夫婦であるなら、一方が、神様のものになれば、パートナーである者も、契約を結んだものであるが故に、神様のものとなる。

そして彼らから生まれる子ども達もまた、聖なる者、つまり、神様のものになるのです。

神様が許された夫婦の関係の中では、一方がクリスチャンであるなら、パートナーや子ども達は、神様の恵みと祝福のもとにおかれるというのです。

素晴らしいメッセージであります。

それは、神様の視点を言っているのです。神様は、広い意味での契約関係に入ったので、「聖なる者」だと私たちのことを見て下さるのです。

「あなたの夫も救われる」という題の書物があります。そこで著者が書いていることは、早くパートナーにクリスチャンになってもらいたいと焦って、相手を強いるようなことをしてはならない。

夫が救われる前に大切なことがあると述べるのです。ノンクリスチャンの夫が、クリスチャンの妻であるあなたを認めていることです。そして一緒に生活することを喜んでいるのです。当時の女性は結婚すると、夫に隷属するような立場におかれた。そのことに対する反発があったようです。離婚して夫の支配から自由になる。解放される。そのことでより聖く生きることが出来ると思っていたようであります。

それに対するパウロの言葉を聞いて下さい。

コリ1 7:14 信者でない夫は、妻によって聖なる者とされ、また、信者でない妻は、夫によって聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

ここでパウロが述べている、夫が聖なる者となり、妻が聖なる者となり、子どもが聖なる者となるというのは、どのような意味でしょうか。

調べてみて驚きました。聖なる者と言う言葉は、ギリシャ語のハギオスで、ヘブライ語のカドーシュであります。

「聖なる者」という言葉は、「神さまのものである」という意味であります。

パウロは凄いことを、思い切ったことを言うのです。

そこには契約と言うことが関係していると思います。

神様を信じることは、神様の契約を結ぶことであります。

そして夫婦となると言うことも契約を結ぶことであります。

ですから次のようなことが言えるのです。

夫婦であるなら、一方が、神様のものになれば、パートナーである者も、契約を結んだものであるが故に、神様のものとなる。

そして彼らから生まれる子ども達もまた、聖なる者、つまり、神様のものになるのです。

神様が許された夫婦の関係の中では、一方がクリスチャンであるなら、パートナーや子ども達は、神様の恵みと祝福のもとにおかれるというのです。

素晴らしいメッセージであります。

それは、神様の視点を言っているのです。神様は、広い意味での契約関係に入ったので、「聖なる者」だと私たちのことを見て下さるのです。

しかしながらパウロ先生、個人的な信仰の告白はどうなるのでしょうか?

その点についてパウロは、「共にいることを喜んでいる場合には」というのです。本人が信仰の告白をする前の段階として大切なことは、クリスチャンになった人生にパートナーと一緒に暮らすことを喜んでいるかどうか。認めているかどうかなのです。

私たちの母教会に、祈り深い方、敬虔な女性がいました。

ご主人は、なかなかクリスチャンにはなりませんでした。しかしご主人が、奥さんのことを次のように言っていたと聞いたことがあります。「うちの嫁はんは、イエス様みたいな人や。」

このご主人は、奥さんと一緒にいることを喜び、尊敬しておられました。「聖なる者」とされていたのです。そしてご主人は、洗礼を受けて、天国に行かれたとご家族の方からうかがいました。

神の「聖さ」を意識して歩みたいと思います。

また家族が「聖なる者」とされることを祈りたいと思います。