2021年1月24日のオンライン説教要約   「栄光の雲」

2021年1月24日のオンライン説教要約

                           「栄光の雲」   中道善次牧師

    

  出エジプト 40章33~38節

 

出エジプト40章から、完成した幕屋に栄光の雲が留まったという記事から説教を取り次ぎます。

 

①言われたとおり幕屋を造った

幕屋建設の記述の中で注目したい言葉があります。出エジプト35章30~35節です。

出 35:30 モーセイスラエルの人々に言った。「見よ、主はユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名して、31 彼に神の霊を満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けられた。32 それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、33 宝石を彫ってはめ込み、また、木を彫るなど、意匠を凝らしたあらゆる仕事をさせるためである。34 さらに、主は彼の心に人を教える力を授けられた。彼と、ダンの部族のアヒサマクの子オホリアブにそうされた。35 彼らの心を知恵で満たし、彫刻師、意匠を考案する者、青や紫、また深紅の糸と上質の亜麻糸の刺繍職人、織り物職人、あらゆる細工仕事を行う職人、細工の匠として、あらゆる仕事をするようにされた。

また献げ物に関して、以下の箇所を御覧ください。

出36:3 彼らは、イスラエルの人々が聖所の建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物をモーセから受け取った。しかしイスラエルの人々は、なおも朝ごとに、自発の献げ物をモーセのもとに携えて来た。

出 36:7 手持ちの材料はすべての作業を行うのに十分であり、余るほどであった。

宝石の細工が出来る人。木を彫刻したり、金物の彫刻をしたり、工作が出来る人。織物が上手に出来る人。それらの方々の技術が用いられました。

それと共に、多くの人々が献げ物を携えてきたのです。

イスラエルが幕屋を建設するとき、人々に奉仕の心が与えられました。それは教会堂という建物を建てることに繋がると思います。

イスラエルの人々は、自らの技術、与えられた経済力、それらを幕屋建設の為に献げたのです。

そして似たようなことが、私たちの教会の会堂建築にも当てはまると思います。

教会員の多くの方々の技術、労力、献げ物が、私たちの教会のビルを購入し、それを改築して教会堂として献げるために用いられたのです。

教会は建物ではない。私たち一人一人が教会である。よくそのように言われます。しかし同時に、みんなが集まる礼拝をする場所を造ることは、目に見えない教会を作り上げることに深く繋がってゆくと、出エジプトの幕屋建設の記事から教えられたのです。

そしてついに彼らの礼拝を献げる場所、その準備が整ったというのが出エジプト40章でありました。

39章に、次のような言葉が出て来ます。

出 39:42 イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。

出 39:43 モーセがすべての仕事を見ると、主が命じられたとおりに彼らが行っていたので、モーセは彼らを祝福した。

「主の命じられたとおり」。

単に建物を建てたのではなく、主の言われたとおりに造ったのです。

福音書の中で、イエスに天国に行くには、何が必要ですかと質問した富める青年がいました。主は戒めを守りなさいと言われました。主への応答で、「そのようなことは幼い頃から守ってきました」と答えました。しかし彼は全てを献げて主に従うことが出来ませんでした。この青年は、自分の基準では従っているつもりであったのだと思います。私たちも聞いたつもり、従ったつもりになっている。しかし本当は、ちゃんと、正しく聞いていないことがあるのではないかを顧みたいのです。イスラエルの人々は、主の言われたとおりにやったのです。

 

②神と出会う礼拝の場所

モーセが造った幕屋を「会見の天幕」あるいは「会見の幕屋」と呼んでおります。

出 40:34 会見の天幕を雲が覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。

出 40:35 モーセは、会見の幕屋に入ることができなかった。その上に雲がとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

「会見の天幕」とは何を意味する言葉でしょうか。

国語辞典を見ると、前もって場所、時間を決めて人に会うこと、とあります。私たちも、主の日という時間を決めて、礼拝で主に会うのです。オンラインであっても、時間を決めて、礼拝をしておられる方が多くおられるのです。

イスラエルの人々にとって、神様とお会いできるのは、幕屋に来て、犠牲を献げる時でありました。

私たちの教団の創立者は、礼拝とは神様にお会いすることであると言われました。

その根拠をヨハネ20:19~20に見ることが出来ます。

ヨハ 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平安があるように」と言われた。

ヨハ 20:20 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

主とお会いする。そして喜びに満ちる。これが礼拝であります。

弟子たちは、自分たちの目で復活の主に出会いました。

では、今の私たちは、どのようにして主とお会いするのでしょうか?

二つの方法があります。

一つは賛美です。「賛美の生けにえ」と言う言葉があります。旧約の人々は犠牲を献げることで、神様の笑顔を感じ取ったのです。

今の私たちにとって、賛美が主への献げものです。主は賛美の捧げ物を受けて、私たちに笑顔を与えてくださる。これが主とお会いする第一のことです。

第二のこと、それは主のお声を聞くことです。

私たちは礼拝で聖書の御言葉を聞きます。それを神からの語りかけとして聞きます。

会見の天幕で礼拝をした人も主からの声を聞いたのです。

出 25:22 私はそこであなたに臨み(口語訳では、あなたに会い)、贖いの座、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る。

イスラエルの人々は、二つのケルビムの間から語られる神の声を聴いたのです。

神のほほえみを感じ取り、神の語る言葉を聞く。それが私たちの礼拝であります。

 

③栄光の雲が満ちた

第三のこととして、幕屋に満ちた神の栄光を考えます。

出エジプト40:34には、会見の天幕に、主の栄光が満ちたとあります。

主の栄光は35節を見ると「雲」という表現で表されています。

聖書では、神様の栄光を「雲」と表現する事がしばしばあります。銀色の「もや」のようなもの、という牧師もいます。

神の栄光を、ヘブライ語で、シェキーナーと呼びます。その意味は、輝きを放つという意味です。

その事例が、ダマスコに行く途上で、パウロが光り輝く主イエスに出会って倒れた姿であります。これはシェキーナーの栄光に触れた姿です。

預言者イザヤは、神殿の中でセラピムが飛び交い、聖なる、聖なる、聖なると賛美している声を聞き、主の衣の裾が見え、畏れてひれ伏した。これも輝く主の栄光に触れた姿です。

主の栄光とは、目もくらむような輝きと雲の二つの表れであります。

出エジプト40章の幕屋の完成の時にあらわれた神の栄光は、雲という形でした。

モーセは、この二種類の神の栄光を個人的によく知っていました。神と深く交わるモーセは、その神の栄光を彼の顔に反映していたと、出エジプト34章には記されています。

最初に造られた人間は、この神の栄光に包まれていたのです。しかし罪を犯し、彼らの身体から神の栄光が去ってしまったのです。それでお互いの目が開け、恥ずかしいと思うようになったのです。

この出エジプト40章、幕屋の完成の時、失われたはずの神の栄光が、主の宮に、留まり、満ちたのです。

ここではイスラエルという共同体の上に、神を礼拝する場所に、神様の栄光が留まり、栄光が回復されたのです。

個人の栄光の回復のことをローマの信徒への手紙では次のように語ります。

ローマ 3:23 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、

「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。これは、原文の意味を正しく伝えると、「神の栄光にショートしている」となります。神の栄光に届かないという意味です。私達は皆、栄光の輝きに包まれるという本来の姿からは程遠い。最初に人間が持っていた栄光の輝きを、もうだれも持っていない。

しかしイエス・キリストを信じることによって、罪が赦され、神のかたちが回復され、私たちの内側に神の栄光が回復されるプロセスがはじまるのです。

やがて私たちが天国に行くとき、神の栄光に包まれるのです。そして今、私たちはその回復の途上にあるのです。

教会も私たち自身も神様の栄光に包まれたいと願います