2020年10月4日の説教要約 「永遠の家」

2020年10月4日の説教要約

             「永遠の家」  中道由子牧師   

≪わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。≫

(第二コリント5章1~10節)

 

 新型コロナウイルス対策により、例年のように召天者記念礼拝は持てませんが、10月はメモリアル月間として分散して行うことになりました。今日は、第一週目です。

 

1、天から与えられる住まい

聖書の説くところは、この世の人々が願い求め、望むところとは正反対で、聖書の教えは逆行しています。私たちの最大の関心事は、この地上でいかに快適に生きられるかということです。そのためには「どうしたら少しでも多くの収入を得られるか」と考えます。政治や経済が、どのように人生を幸せに生きられるかを追求する時、聖書は、一貫してどうしたら罪が許されるかを説きます。聖書は、現実と逆行しているように見えます。生活よりも、永遠の命や天国のことに重きをおきます。

1節をご覧ください。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」

「幕屋」というのは、旧約聖書出エジプト記35章から出てきますが、まだ約束のカナンの地に入る前に、イスラエルは荒野を移動していく旅の民でした。神様を礼拝するところも、幕屋というテントを組み立てていたのでした。もちろん、雄羊の毛皮、じゅごんの毛皮、アカシヤ材などで作られた精密で見事に縫い合わされたものだったのですが、これはソロモンの時代の神殿に較べると、やはり一時的なものでした。

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 そしてこの幕屋は、「私たちの体」に例えられているのです。地上の住みかである幕屋、テントは私たちの肉の体がちょうどテントのようにはかないものである、と言っているのです。これはやがて朽ち果ててしまうものです。

エス様が受肉、肉体を取られてこられた時も、ギリシャ語では「天幕を張った」という表現になっているそうです。

ヨハネによる福音書ヨハネ1章14節「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」イエス様も肉体という、仮住まいを経験されました。

それに較べて、1節「神によって備えられている建物」「人の手で造られたものではない天にある住みか」はどうでしょう。朽ちるテントではなく、永遠に朽ちない天にあるビルディングです。パウロは、肉体を脱ぎたいのではなくて、この住みかを上に着たいと切に願っている、と言っています。朽ちるからだが、滅びない栄光のからだを着るようになるということ。ただそのために、2節「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」と言っている。私たちが苦しみもだえるのは、この地上に生きている間に、永遠の命を賜って、死というものを経験しないで生きたいと思うからです。この肉の体が滅びないで、死を味わわないで、このまま朽ちない衣である、永遠の体を上からすっぽり着せていただけたら最高です。誰も、死を通りたい人はいないと思います。死は私たちにとっては、未知の分野です。自分はどうなるのか、わかりません。

子供が生まれる時、母親は苦しみから解き放たれ、喜びに満たされます。死を通ることが、向こうにある輝きと喜びにたどり着くための一瞬の苦しみであるならよいと願います。

さて、ここでパウロは3節「それを脱いでも、(肉の衣を脱いでも)わたしたちは裸のままではおりません。」と言っています。裸で神のみ前に霊的には立つことができないのです。神様はそんな私たちにイエス・キリストの義の衣を着せて、神の御前に立つことができるようにしてくださってあげるよというのです。神様は私たちのために、永遠のからだを着る準備をしてくださっているのです。私も皆さんも神様にこの準備をいらないという方はおられないと思います。

4節をご覧ください。「死ぬはずのものが命に飲み込まれて」と書かれています。死が命に飲み込まれる、これこそ復活の力です。イエスキリストは、この私たちが通るところの死を経験され、神の力強い復活の息吹により死を打ち破ってくださった。皆さんが天にお送りになった愛する方々も、死を通りましたが、死んだままではありません。私たちもやがて同じところを通りますが、神は私たちにも死を打ち破らせてくださるのです!

 そして、これにはちゃんと保証があるというのです。もう保証金が支払われています。5節「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」

その復活の保証として、私たちに聖霊をくださいました。地上で生きる間、私たちは主から離れていますが、聖霊によって復活の望みを抱いて信仰を持って歩んでいます。家を買う時に、ローンを組んだりしますが、まずある程度の「手付金」を支払います。でも、この天にある永遠の住まいはすでに全額の「手付金」「保証金」が支払われていますから、私たちがそこに住む約束は確かなのです。

ローマの信徒への手紙8章11節「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたのうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるでしょう。」

 霊はキリストが再臨されるときに、死から私たちをよみがえらせて栄光の体に変えてくださるお方です。聖霊は目に見えませんが、主の者となった私たちに対して、栄光の体となる保証として(手付金として)すでに心の中に与えられているのです。だから「私たちは心強い」とパウロは6節、8節で二度にわたり強調しています。今、どんな状況にあったとしても、神様が必ず復活のからだを与えてくださると確信しているからです。

このように至れり尽くせりの備えをしていただいている私たちは、この地上でどのように生きていくべきなのでしょうか?

 

2、主に喜ばれるものでありたい

7節を見ましょう。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

すでに天国のマンションの権利を賜っている私たちは、家や土地や財産など目に見えるものに頼らず、ひたすら天国を望む信仰によって日々生きています。

パウロはここでむしろ「体を離れて、主のもとに住むことを望んでいます。」

早く天国に行きたい、というわけです。なんで生かされているのか?

もちろん神様がそのことを望んでおられるからですが、私たちはこの地上にある限り、生きている使命があるからです。私たちの人生は生きていく長さも違います。それぞれ違い、神様にはそれぞれに計画がある。それがわからなくて生きていくのは、辛いです。また、反対に生きたいけど、若くて召されていく方もおられます。

パウロはフィリピの信徒への手紙1章20,21節「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

パウロのようには大胆に宣言できないかもしれません。しかし、死は恐ろしいものではなく。主のもとに行くことであり、永遠に主と共に住むことです。また、地上で生きることは、神様に喜ばれる生き方をすることです。私たちの命は自分のものではなく、与えられているものです。

その命を精一杯生きて、神様に喜んでいただきたい。