2019年2月24日の説教要約
「神の栄光のため」 村岡貞海牧師
<ヨハネ11:1-10>
中心聖句4節 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
ベタニヤの村に住んでいる、マリヤとマルタ、ラザロの3人兄弟のことが紹介されています。ひとりの病人ラザロが重病でイエス様に助けを求めている状況でした。
イエス様は現在そのユダヤ人の迫害から身を避けておられました。このような状況でしたのでラザロに会いに行くことも危険なことでした。重い病気の人には素早い対応が必要であるのにも関わらず、早く行かれませんでした。
まさに緊迫感と困難と試練の中にいました。
4節の言葉を通して、今の私たちも問題と混乱と試練があるときにも、私たちの傍らに立ってくださる、主イエス・キリストの愛と慈しみを信じて、神様の栄光を見る恵みが注がれることを祈ります。
ヨハネの福音書は1-11章まで、特別な特徴を持って、7つのしるし(奇跡)を通して、イエス様の神性と人格を明らかにしています。
11章は最後のしるしとして、ラザロに命が与えられるところです。
イエスの愛しておられる姿、困難があっても諦めないで進み行かれる姿をみます。
そればかりか、ラザロを死から命を与えることによって、神の栄光を受けるそれは、ご自分が私たちの罪を負い、十字架に死にて、蘇る方であることを見せると宣言してくださるのです。
① 愛の関係。1-3節
福音書を通して、イエスは慈しみと恵みを持って人々に近づいておられることを確認することができます。ヨハネ5章では、38年間病んでいた者を素通りせず会って、治してくださいました。ヨハネ6章では、多くの群衆が飢えていた時も、弟子たちにあなたがたが食べ物を与えなさいと命じ、奇跡を起こしてくださいました。
11章の3・5・36節を見ても、「あなたが愛しておられる者が」、「愛しておられた」、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか。」と語られています。イエスは共に涙を流されました(35節)。心を痛めてくださいました。
ラザロだけを愛されたのでしょうか。私たちをも愛しておられることを知って、私たちは心が動かされ、神様を讃美する者とせられているのではないでしょうか。
マリヤは愛しておられるイエスに感謝して心を尽くして、高価な香油を注ぎます。それがヨハネ12章3節に書かれています。ルカ10章ではマルタが、イエスが訪ねられる時に急ぎもてなしていたのです。愛しておられるイエスを知って感謝しています。
3節 姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言います。
私たちを愛しておられるイエス、私たちを愛しておられるイエスの品性を通して、恵みを受け、恵みに感謝することができます。
② 屈することのない愛 5-10節
10:31を見るとユダヤ人はイエスを信じることが出来ないばかりでなく、イエスを迫害して、イエスは退いておられました。弟子たちは7-8節で緊迫している状況を話しています。9-10節でイエスは弟子たちに、まだ十字架を負う時でない事を話して安心させてくださいますが、イエスの言葉を理解できませんでした。
16節 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。それほど困難と試練があったと思います。
イエスは祈りに答える為に、困難と試練と思えることがあっても、屈することのない愛を持っておられます。イエスはラザロに命を与えるために、彼らの所に向かわれます。
宣教・伝道の働きが教会では行われます。ミャンマーに宣教チームが12月末から、ミャンマー教会の50周年記念礼拝に参加ました。現地の教会の活動である孤児院と、内戦による難民キャンプ場に行き、支援も14年間続けています。
先日、その報告を受けました。
困難がある道であったと思いますが、神様の導きのある働きだったと思います。
イエスはラザロに命を与えるために、どんな困難にも屈することなく、進み行かれます。
③ 神の栄光のために 4節
ヨハネ福音書に記されている7つのしるしを振り返りたいと思います。
特に今日のしるし(奇跡)を考える時、ラザロが始めから病気にならなければ良かったのにと思うこともありました。しかし、この世に於いてアダムが罪を犯した後、神様から背を向く歩みをして行く中で人類には罪による苦しみが与えられています。
誰もが受けることのある痛みであり、苦しみでもあります。
喜びが消え、病にかかり、生まれながらの障害を持つことがあるのです。
イエスは私たちに新しい命、罪の赦しと、愛を与えるためにこの世に来られました。
このことがヨハネの福音書の7つのしるしを通して、明らかにされているのです。
イエスキリストの栄光の権威は、独裁者の権威とは違います。
独裁者の権威は力で抑えるものですが、イエスキリストが話される神の栄光の権威は力で抑えるものではないです。イエスは大きな力を持っておられ、真の権威ある方が、罪を背負い、赦しと励ましの栄光で明らかにされるのです。
初代教会の代表者であるバルナバは、初代教会に於いて、権威ある人でした。
それは、慰めと、励ましと、良き働きに富んでいる権威であったことを見ることができます。それによって、使徒パウロが導かれて、福音が世界に伝えられて行きました。
イエスは愛して屈せず命を与えてくださることで、ご自分の権威を現しました。神の栄光のために。イエスを慕い求めて歩みましょう。