2019年3月3日の説教要約 「主人と一緒に喜んでくれ」

201933日の説教要約

    「主人と一緒に喜んでくれ」   中道由子牧師

 

≪よくやった、忠実な僕だ。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。≫ 

                               (マタイによる福音書25章14~30節)

 

マタイによる福音書24章、25章は主の再臨のことが書かれています。

1、主人が旅に出るとき 2、良い忠実な僕 3、悪い怠け者の僕

 

1、 主人が旅に出る時

1節に、天の国は主人が旅に出る時に、自分の財産を僕たちに預けて行くようなものだ

と言っています。イエス様は十字架の死が近い時、主が去った後、弟子たちに福音宣教を委ねようと、そのために必要な賜物を与えてどのように用いるかを考えさせたのでしょう。

ドイツ語では、賜物のことをgabe「ガーペ」というそうです。使命とか、努めるべき役職、役務ということにかかわりがある言葉ですから、賜物を与えられると、それは、同時に課題が与えられるという意味があります。

このタラントは、正確には「タラントン」という発音だそうです。

1タラントンは、勤労者の二年分の収入だそうです。結構なお金です。

1タラントンは、6千デナリ。1デナリが当時の一日の労賃でした。1デナリを1万円とすると、6千デナリは、約6千万円。5タラントンは約億円。2タラントンは約1億2千万円になります。これだけのものを主人は僕に託して行ったのです。よほど僕を信頼していないと任せられません。

そして、その財産を、3人の僕の「それぞれの能力に応じて」委ねられた。

つまり、才能そのものを、タラントンと言っているわけではないのです。ここでは、そうではなくて、才能に合わせて、神が与えてくださった〈使命、課題〉、〈神の宝〉をタラントンと呼んだのです。みんなそれぞれ才能を持っている。

その才能を生かして用いる〈神からの財産〉がある、私たちが生まれつき持っている才能や、時間、健康、金銭なども元をただせば神から与えられたものです。その財産を生かして何をするか、です。ここで、家の主人は三人の僕にそれぞれタラントンを渡された。特別なタラントンを5タラントンの人に与えたとは書いていない。特別劣ったタラントンを1タラントンの人に与えたとは書いていない。皆そのまま一人一人の能力に応じて、与えた。差別のない世界なのです。

 

2、良い忠実な僕

 5タラントンいただいた僕は、この与えられた5タラントンで「商売をした」と書いてあります。そして、5タラントンに増やしたのです。2タラントンもらった人も2タラントン何かをして増やしました。その才能に応じて、神の財産をちゃんと管理し、増やしたのです。主人は、神様で神様の手伝いをしなさい。それぞれみんなできるとおっしゃっておられる。

神様の務めをするのに平凡な才能では、駄目だから特別な才能を与えたのではないのです。つまり、この5タラントン、2タラントン、1タラントンというのは、三人の才能を評価して、この男は才能が低いから、低い仕事しかできないと差別しておられるのではないのです。みんな、一人一人に応じて、神の仕事が任せられる。人のを見て、あの人の仕事が勝っている。自分の仕事は劣っている、と思わなくていい。自分ができるだけの仕事をすればいいのです。21節、23節に主人が5タラントの僕と2タラントンの僕に言った言葉があります。「忠実な僕だ。よくやった。お前は少しの者に忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

同じお褒めの言葉をかけています。2タラントンの人より5タラントの人の方を喜んでいる事実はまったくありません。2タラントン預けられ2タラントンもうけた人も、5タラントン預けられて5タラントンもうけた人と同じように、主人に喜ばれています。大切なのは、どれだけの仕事をしたかではなく、主人に喜ばれることです。

実際世の中には、豊かな賜物に恵まれていて、うらやましい人もいます。でも彼らだって始めからそうではなかった。世界的な伝道者として有名なビリー・グラハムも、最初はアメリカ内でも無名の伝道者でしかなかったのです。しかし、彼は神が与えてくださった賜物を信じて、忠実に伝道者としての奉仕を続けるうちに、カリフォルニア州ですばらしいリバイバルが起こり、それがきっかけになって全米にクルセードが始まった。日本に来た時も初めは小さな無名の教会や集会の働きを助けていたのです。彼の伝道者としての賜物は、一朝一夕に与えられたものではない。忠実に賜物を用いることによって、次第に豊かにされていったのです。神様は賜物を用いる者にはさらに豊かに与えて下さるのです。

 

3、悪い怠け者の僕

 1タラントンもらって土の中に埋めた僕が、2タラントン、5タラントンの僕とまず違うところは、主人に対する信頼です。

24、25節「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、」

と書かれています。この僕の主人に対する理解は、当時の税金取りのように、何も持ってなくてもいきなり帰ってきてこれだけ払え、というような慈悲のない、容赦ないお方だと思っていたことでした。

私はここを読むとき、戦国時代、あの織田信長に謀反を企てた、明智光秀を思います。彼については、いろいろ解釈され、映画やドラマにもなっています。多くは、織田信長は、なかなか気難しい殿様であったけれど、明智光秀が持っているものをちゃんと理解していたように描いてあります。上司の懐にうまく飛び込めなかったのですね。私たちは神様の懐に飛び込めますか。神様が認めて期待していてくださるのに、その心がわからないことがないでしょうか。そんな時は苦しいものですね。自分をみじめに感じたり、神様が意地悪に思えたりするものです。この僕は、恐ろしいお方だと言っていますから、主人の気持ちがわかっていないことがよくわかります。ある説教者は「彼は、自分のいのちを埋めたようなものだ」と言いました。自分の生きる意味、自分が与えられているものを地に埋めて隠してしまったものが受ける報いは、30節です。彼に待っているものは、暗闇です。光がない寂しい心なんです。そして、泣きわめき、歯ぎしりする。なんで自分だけこんな目に合わなければならないんだよー、と。平安もなく、喜びもありません。

1タラントンを地の中に隠した僕は、2タラントン、5タラントンもらった僕を横目にどうせ自分は1タラントンの人生だよ、そう思ってしまったかもしれません。

2タラントンもらった僕は、5タラントンもらった僕を見て自分を嘆くようなことはしなかった。自分にふさわしいタラントンが与えられていることを喜んだのです。与えられているものに忠実に生きて、主人を喜ばせ、もう2タラントンもらったのです。

この1タラントンもらった人も、この1タラントンを用いて商売をすれば少しずつ増えて、最初5タラントンもらった人より増えていく可能性大!だったのです。

神の恵みから外れている者は一人もいない。例外なく、みな喜びの食卓に招かれているのであります。

詩篇142節(リビングバイブル)「主は天から全人類を見下ろし、神様をお喜ばせしたいと願う賢い者をお探しになります。」

この終わりの時、私たちが考えるべきことは、ご主人様を喜ばせることができるかどうかです。主が十字架の上で私たちに与えてくださった「命」は何にも代えられない私たちの宝、財産です。この尊い財産を決して無駄にしない生き方、与えられているものを最大限に神の国のために尽くし置かれた所でそれぞれの花を咲かせましょう。