2021年11月14日の説経要約 「恵みと信仰による救い」

2021年11月14日の説経要約

        「恵みと信仰による救い」     中道善次牧師

 

≪事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。≫

(エフェソ信徒への手紙 2章8~9節)

 

 

10月31日は宗教改革記念日でした。二週遅れですが、宗教改革を覚え礼拝したいと思います。

「恵みと信仰による救い」を語ります。私たちプロテスタントの信仰者にとって大切なことであります。宗教改革者のルターやカルヴァンが強調したのは、「恵みのみ」「信仰のみ」そして「聖書のみ」であります。今日はその中の、「恵みと信仰に」について語ります。

 

1、恵みは人を不愉快にさせる

恵みは人を幸せにし、祝福するものであるのに「不愉快にする」とは、どういうことだろう?

そのように思われる方もいると思います。

この表現は、フィリップ・ヤンシーの「この驚くべき恵み」という本の中にあります。

正確に言うなら、「福音の不愉快な数学」であります。

この表現が、先ほどの本の第5章「恵みの新しい数学」の書き出しにあります。

「福音の不愉快な数学と題した私(ヤンシー)のコラムが『クリスチャニティ・トゥデイ』誌に掲載したところ、今のネットで言う「炎上」が起こったというのです。

まだ郵便ポストの時代ですが、私のコラムを酷評する手紙で、我が家の郵便ポストの中は焦げ付かんばかりだった。

ヤンシーは、4つの福音書の中にある物語をあげて、私たちを不愉快にさせる物語だというのです。

第一は、ルカ福音書15章にあるイエスのたとえです。一匹の羊が迷ったら、その一匹を探しに、99匹を残して羊飼いは出かけないだろか?物語には、99匹の羊を荒れ野に残して、探しに行ったとあります。そうなると、泥棒が来るかもしれない。他に迷い出る羊がいるかもしれない。オオカミに襲われるかもしれない。

第二は、3つの福音書に載っているマリヤの油注ぎです。イエス様に一年分のお給料に相当するナルドの香油を注いだ。ヤンシーという人は、人の揚げ足をとるような書き方をするのです。マリヤは、ほんの少量の香油で、十分な目的を遂げられるのではないか。ユダや弟子たちが、これは無駄遣いというのはもっとものことだと言うのです。

第三は、やもめの献金です。マルコとルカに書かれている物語です。貧しいやもめが、レプトン銅貨を二枚献金した。通貨の計算をしてみると150円ほどです。イエス様はこの女性は、誰よりも多く献金したと言われたのです。たくさん献げている人が聞いたら、当然不愉快になる言葉であります。

第四は、ぶどう園のたとえです。

この箇所は、聖書を開きます。マタイ福音書20:1~15(引用省略)。

ヤンシーは、不愉快と言うより不公平と言うべきかもしれないと語ります。不公平と感じたのは、放蕩息子のたとえに登場する兄です。

父親の財産を生前贈与して受け取った弟は、お金を使い果たし、ぼろぼろになって帰ってきた。その間も真面目に働いていた兄は、何も言わずに受け入れる父親に不満を言ったのです。不公平な父親の態度です。そしてその不公平は、明らかに兄を不愉快にさせたのです。

「恵み」「神の恵み」とは、それを受け取るに値しない、相応しくない人が、大切なものを受け取ることであります。

一時間しか働かないのに、十分な報酬を得ることは、12時間働いた人には不公平であり、不愉快でした。しかしそれが「恵みの世界だ」とイエス様はおっしゃるのです。

私たちがいただいている祝福は、当然ではないのです。他の人から見たら、腹が立つ、ねたみを覚える、何故あの人がと言われるものなのです。

小説家の三浦綾子さんが、私は神様から「えこひいき」されていると言われました。それは恵みの世界を表現している言葉です。

私たちもまた、神様からえこひいきされているのです。それが神の恵みの世界なのです。

 

2、 恵みだけでなく信仰も神からの賜物

次に、今日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙2章8~9節をご覧下さい。(引用省略)

受ける資格のない者に与えられる一番大きな恵みは、罪の赦しです。

プロテスタント教会が大切にする恵みによる救いは、他の行為を否定します。

宗教的な行いによる救いではない。宗教儀式による救いでもない。お金を払ってお札を買うことによる救いでもない。ただ神の恵みによるのだ。

そしてその恵みを受け取る為に大切なことは、信仰であります。

それが恵みにより、信仰による救いであります。

そのことについて私は長い間誤解をしておりました。恵みは神様が下さるものである。受ける価値のないものがいただくものであります。しかしそれを受け取るために大切なことは、信仰であります。

私は、次のように理解していたのです。恵みは神様から来るもの。しかし信仰は人間が持つもの。

自分には、この信仰が持てない。それは人との比較があったのです。あの人のように立派にはなれない。あの人のように熱心にはなれない。

その私を信じさせてくれたのが、「ありのまま」という言葉でした。上原令子さんというゴスペルシンガーの方の言葉で、心開かれて、このままの自分でもいいのだと信じる決心が出来ました。

エフェソ2:8の解説に次のようにあります。恵みにより信仰を通して救われた。そして救われたことは、神の賜物だ。神の賜物は神様からのプレゼントのことです。救いはもちろん、神様からのプレゼント。これはわかります。そして恵みによりとあります。神様の恵みももちろん神様からのプレゼントだとわかります。そうなると残る一つ「信仰」もまた、神様からのプレゼントなのです。

信仰もまた神からの賜物なのです。

ヘブライ語では、信仰という言葉は、受け身から派生しております。「支える」の受け身、支えられる。そこから信じるという言葉が生まれたのです。

神様によって支えられて、自分たちは信じることが出来るのです。

信仰もまた与えられる。だから誇ることがないのです。そうでなければ、自分たちの熱心さ、活動、がんばりを誇ってしまうのです。誰も誇ることはない。恵みです。聖書はそのように告げるのです。

 

3、 恵みを受けた人の応答

神様の恵みは人を不愉快にさせると語りました。

神様の恵みを受けた人の応答もまた、人を不愉快にさせるのです。

それが、イエス様の足に香油を注ぎかけた女性の行為です。聖書の中には二人、これをした女性がいるのです。一人は罪を赦してもらった女性。もう一人は、弟が神だのに生き返らせてもらった女性です。

両者の行為は、一般の人から言うと常軌を逸した行為です。そこまでしなくても、という「行き過ぎ」であります。だからそれを見た人々は不愉快に思ったのです。

しかし全てを献げるようにして神様に仕えることは、リーズナブル、理性的に考えても納得のゆくことだとパウロという人は告げるのです。「なすべき」を協会共同訳は、理に適ったと訳しています。

ロマ 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

恵みへの応答は、どこまでも自発的なものですから、強制されるものではありません。

しかし少なくとも、恵みを受けた人が、応答している人々を見て、不愉快に思わないことです。

エス様は、恵みを受けた人が、それに相応しくない行動をとることを次のように言っておられます。

1万タラントンの借金を赦してもらった人がいる。1タラントンが6000万円ぐらいの価値があるというのですから、途方もない金額の赦しです。ひれ伏して赦してもらったのです。ところが、100デナリオンを貸した人に返済を要求したのです。せいぜい100万円です。しかもその人の首を絞めて、返すまで牢に入れたというのです。恵みを受けた人は、他の人に対して、恵み深くあること。それは当然のことです。

それをイエス様は別のたとえで、誰でもいいから、道にいる人でもいいからパーティに招きなさい。それは受ける資格のない人々です。その人たちがパーティに参加できるように「礼服」も用意されました。その人たちが当然する応答は、礼服を着ることです。でもそれを拒んだ人がいたのです。

神様が与えようとしているものの中から、自分のほしいものだけ選び、あとはいらない。それは恵みを受ける人の応答ではないのです。ありがたく全てを感謝して受け止めるのです。

礼服の一つは、よい行いをするように造られた「新しい人」であります。

エフェソ2:10には、恵みによって救われた人は、よい行いをするように造られたのです。

神様の恵みにお応えして生きたいと思います。