2021年9月5日の説経要約 「義に飢えかわく人々の幸い」

2021年9月5日の説経要約

         「義に飢えかわく人々の幸い」 中道善次牧師

                ≪マタイ 5章6節≫

 

1、 飢える者を飽き足らせるイエス

マタイによる福音書の山上の説教の「8つの幸い」の教えを語る時、ルカ6章の「平地の教え」を比較します。

マタイは「義に飢え渇く人々」と表現しており、明らかに霊的な言葉として表現しております。マタイが、ここでいう義とは、「神ご自身」であり、「信仰」であると理解できます。

有名な言葉マタイ福音書6:33に「神の国と神の義とを求めなさい」があります。

そこで求める神の義とは、自分の正しさではなく、神様との真っ直ぐな関係であります。真っ直ぐとは、最短距離であります。神様といつも近い距離にいる。それが神の義を求めることであります。

それに対してルカ福音書では、今飢えている人々は幸いであると述べています。飢えている人々と対比されているのは、食べ飽きている人々であります。ルカ6:21と25をご覧下さい。

マタイが語ったイエスの言葉とルカが語ったイエスの言葉が少し違うのです。イエスが両方の言葉を語られたという理解もあるのですが、聖書を学ぶ世界では、短い方の言葉がオリジナルと言われます。

ここでも短い方がオリジナルと言える。つまり、イエスは、飢えている人々を目にしていた。その人々に向かって語られたのです。

私は貧しい国の一つミヤンマーに毎年のように行きます。貧しい国ですが、現地のある方はこう言ってくれました。それでもミヤンマーは農作物が取れる。貧しいと言っても食べられないような貧しさではない。

同じ貧しさでも食べられる貧しさと食べられない貧しさがある。

かつて紹介されたのは、飢饉で苦しむエチオピアで、柔らかな石ころを食べようとしている女の子の写真でした。国際飢餓対策が提供してくれたものでした。

この写真を見て、イエス様が、40日の荒野の誘惑のあと、石をパンに変えよと悪魔がささやいたことが、よりよくわかりました。人は飢えると、石であっても食べられそうなものを探して食べる。奇跡を起こすことが出来るイエスに、この石をパンに変えよと悪魔が言ったのは、飢えたイエスに対する誘惑でした。

福音書のイエス様は、飢えと闘われたのです。

それだけでなく、食べるものに困っている人々に豊かな食事を与えられたのです。

それが5000人のパンの奇跡であり、4000人のパンの奇跡です。4つの福音書の中に5000人の給食の奇跡は4つとも出ているのです。4000人の奇跡は2回出てくるのです。

この奇跡は、飢える者を飽き足らせる奇跡でありました。食べたパンのかごのあまりが5000人のときには12あり、4000人のときには7かごあったのです。

エスは、ルカ福音書で述べた「飢える者が満たされる」ことを文字通りなさったのです。

福音書に出てくるイエスは、飢える者を食べ飽きるようにされる御方であります。

 

2、神に飢え渇いた詩人

マタイ福音書は、義に飢え渇くと表現しております。それは霊的な飢え渇きであります。

なぜそのように言葉を加えたのでしょうか。ヨハネ福音書の5000人の給食の奇跡の物語では、その奇跡のあとで、人々はイエスを捜し求めたのです。その理由、目的は、イエスを自分たちの王として、いつも満足させてくれることを求めたのです。それに対してイエス様は、人を生かす霊的な食物を求めなさいと言われたのです。それがマタイ福音書の「義に飢え渇く人々の幸い」に繋がってゆくのです。

「義に飢え渇く」ことを学ぶために、詩編42編から学びたいと思います。

「鹿が谷川を慕いあえぐ」という言葉で始まります。

かつて、緑豊かな山の中に涼しげな渓流が流れる背景の中で鹿が川の水を飲んでいるという絵を見たことがあります。それが一つのイメージに長年なっていました。

しかしこの詩は、豊かな水の流れの中で、鹿が水を求めていることを述べているのではありません。

協会共同訳では、42:2を次のように訳します。

「鹿が枯れ谷で水をあえぎ求めるように 神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める」

旧約学者の関根正雄先生は、このように訳されます。「鹿が乾いた川床に向かってあえぐように、ヤハウエよ、わが魂もあなたに向かってあえぐ」。

詩篇42篇は、祭司であった人が、捕囚の地に連れて行かれた。その捕囚の地で歌った詩だと言われます。その人が、自分はもう一度エルサレムの神殿で神様を礼拝したい、奉仕をしたいと願い、詩を歌うのです。

今の私たちも、それに似たところがあります。コロナ感染拡大のために、私たちは教会堂に集まることが出来ないのです。教会に集まってもう一度礼拝したい。みんなで賛美したい。笑顔で挨拶したい。祈り会いたい。

詩篇42篇の詩人が一番求めていたのは、御顔でした。神様の顔を見ることでした。

3節に『いつ御前にでて、神の御顔を仰げるのか』とあります。協会共同訳では、それに答えるように、42:6、42:12、そして、42篇の続きと言われる43:5の3回、『御顔こそ、わが救い』と繰り返し詩人が告白しているのです。

ある翻訳では、「わが顔の助け」とあります。その解説には、「私は神が御顔をもって助けてくださると、なお告白しよう」とあります。

神が、そのお顔を見せてくださることが助けであり、救いなのだ。これが旧約聖書の信仰者が持っていた神様に対するイメージなのです。

私達の人生にも、神の笑顔が遠く感じる時がないとは言えません。しかしそのような時こそ、慕い求めるのです。神の笑顔を。そしてこちらから神に微笑をまず向けるのです。私はあなたを、このときにもなお、あなたを賛美しますと。

 

3、御言葉のききん

三番目に、義に飢え渇くということで考えたい言葉があります。それは「御言葉のききん」であります。

この言葉はアモス8:11~12に見られます。

アモ 8:11 その日が来る ー 主なる神の仰せ。私は地に飢えを送る。それはパンへの飢えでも水への渇きでもなく 主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ。

アモ 8:12 人々は海から海へと行き巡り 北から東へと主の言葉を探し求めてさまよい歩くが見いだすことは出来ない。

ここでアモスが言う「御言葉のききん」は、迫害下にある教会の状況とは、少し意味合いが違うのです。

アモスの時代、イスラエルの国は経済的に豊かでした。繁栄を謳歌していました。

神様から心が遠く離れていたわけではありません。人々は、犠牲をたくさん献げる儀式的な礼拝をしておりました。そして自分たちの信仰と生き方は間違っていない。神様から祝福されているのだと思っていました。

それは言葉を換えると、自己満足に浸っている人々の姿でした。

アモスはそのような自己満足の中にいる人々への警告として、やがて、御言葉のききんが来ると言ったのです。

それは、やがて飢え渇くように御言葉を求めなければならない事態に陥る。

それはアモスが預言の言葉を語ってから40年後に起こったことです。

「御言葉を聞くことへの飢え渇き」(11節)は、アッシリヤに捕囚されたイスラエル人が自由に礼拝出来なくなる姿を指しているのです。先ほどの詩篇42篇の詩人の置かれた状況と同じであります。

アモス8章12節には、「海から海へ」とあります。それは地中海からペルシャ湾を指すのです。

アッシリヤの近くがペルシャ湾です。捕囚された人々は礼拝場所を奪われた。またサマリヤに残されたイスラエル人もいました。その人は地中海沿岸にすむ人々です。残された人々もまた、御言葉に飢え渇いたのです。

オンラインという中で、私たちの中に忍び込んでくるある種の自己満足に気をつけたいと思います。

今週も、主を求めて歩む一週間でありたいと思います。