2021年8月1日の説教要約
「心の貧しい者は幸い」 中道善次牧師
≪マタイ 5章3節≫
1、 祝福の宣言
「心の貧しい人々は幸いである」から始まる教えを8福の教えと呼びます。
イエスがその教えを述べた近くに建てられた山上の垂訓の記念教会は、会堂が八角形になっています。
そして内部では、八角形の一面ずつにギリシャ語でありますが、心の貧しい人々は幸いであるから順番に8つの祝福の言葉が、上部のガラスに描かれているのです。
今では、マタイ福音書5~7章は「山上の垂訓」ではなく「山上の説教」と呼びます。何故なら、「垂訓」という言葉では、道徳的な教訓を述べることを意味してしまうからです。
私の心が貧しくならなければいけない。自分が貧しくならなければ、神の国に入ることが出来ない。私たちは、そのように、自分が何かをしなければ、神の祝福を得られないと思ってしまう傾向があるのです。
しかし山上の説教は、イエスの恵みの言葉であります。この8福の教えは、「祝福の宣言」であります。
八福の教えは、日本語の聖書の多くが、〇〇な人々は幸いであると表現しております。
しかし原文では、「ああなんと幸せなことよ」という宣言から始まります。
つまり、これから貧しくなるのではないのです。貧しくなったら祝福を受けるのではないのです。
イエスが目の前にしているのは貧しい人々です。その人たちに向かって、あなた方、貧しい人々は祝福されています。幸せです。
そしてそのような、「ああ、なんと幸せなことか」という祝福の宣言は聖書の中にいくつか見られます。
その中で有名な一つは詩編1:1です。
「幸いな者 悪しき者の謀に歩まず・・・主の教えを喜びとし その教えを昼も夜も唱える人」
ここにも、なんと幸いでしょうという祝福の宣言から始まっているのです。
詩編を読む人に向かって、あなたは祝福されています。あなたは悪から離れています。御言葉を愛しています。そのように「祝福」の言葉から詩編ははじまるのです。
この祝福の言葉を聞くことが礼拝であり、礼拝の中で御言葉を聞くことであります。
そして礼拝の最後に祝祷、つまり、神からの祝福を受けて、礼拝の場所から送り出されるのであります。
2、「貧しい者」と「心の貧しい者」
ルカ福音書の中にも、山上の教えに対比するような教えがあります。それをマタイと対比するように「平地の教え」と呼びます。
マタイ5:1では、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」という言葉から、始まります。
ルカ福音書では、6:17で「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平地にお立ちになった」
その後で、次のようにおっしゃるのです
ルカ6:20 「貧しい人々は、幸いである」
注目したいことは、マタイ福音書は「心の貧しい者」、そしてルカ福音書では「貧しい者」となっております。
どちらが本当にイエスの言われた言葉だろうか。オリジナルなイエスは何か?そのようなことを研究する学問があります。その学問には、一つの法則があります。それは、短い方がよりオリジナルに近いだろうということです。
つまりイエス様の口から出た言葉は、「貧しい者は幸いである」という可能性がより高いのです。
ルカ福音書の中に「貧しい者の幸い」が書かれているのも納得が行くのです。ルカは、貧しい者、虐げられている者、立場の弱い女性などにイエス様が近づき、助け、祝福を与えておられる。それがルカの描くイエス様であります。
ここで当時の時代背景、人々のおかれた社会的な立場を考えたいと思います。
社会学では、三角形を描いて、上のとがったところから何%が上流階級、真ん中の何%が中流、そして三角形の底辺に近いところを貧しい者たちにする。
しかしこの時代の社会階級では、圧倒的に経済的に貧しい人が多かった。三角形の上の数%が上流、その下の数%が中流、そして90%以上が貧しい人々です。その人たちに向かってイエスは、あなた方は祝福されていると言うのです。
次にルカから離れてマタイに行きます。何故マタイは、「心の貧しい者」と書いたのでしょうか?
マタイが福音書を書いたのは、マタイが牧会する教会の人々ではなかったという学説があります。牧師が教会の人々に向かって説教として福音書を書くのです。マタイが牧会をする教会の中には、キリスト者の中で比較的裕福な人がいたのだと思われます。いえそのような人々がいなければ、初代の教会は成り立ちませんでした。
初代教会は、裕福な人たちが自分の家を開放して、集会を行っていた。そのような家の教会がいくつかあったのです。そのいくつかの家の教会をあわせたものが、コリント教会であり、ローマ教会であったのです。
そのような人々に対して、豊かなあなた方もまた祝福を受けていると書く必要があったのです。
あなた方も貧しいのです。それはあなたがたの心が貧しいからです。神様の祝福が、心の貧しいあなた方にあります。そのように宣言するのです。
心の貧しさ。それをギリシャ原文で理解すると次のようになります。
心は「霊」と訳されることが多いギリシャ語です。原文を直訳すると「貧しい人々、霊との関わりにおいて」となります。それは神様により頼まないと生きてゆけない霊を持っていることです。
神様に「助けて」と求めることが出来る自覚に生きている人々のことであります。
3、貧しさを自覚して祈る
心の貧しさということで紹介したい聖句があります。
それを口語訳聖書で紹介します。詩篇68:10です。
詩 68:10 あなたの群れは、そのうちにすまいを得ました。神よ、あなたは恵みをもって貧しい者のために備えられました。
協会共同訳では、詩編69:11で、「神よ、あなたは恵み深く、苦しむ人のために備えてくださる」となっており、少し意味合いが違ってきます。
口語訳の詩編69:10は、私にとって思い出深いみ言葉であります。私が、聖書学院教会で奉仕していた時に、毎日口に出して唱えていた御言葉であります。
22歳から23歳の時です。私が奉仕していた教会は、140人ほどの会衆がいたのです。その人々に向かって説教するのです。人生経験の乏しい私が、人生の先輩、信仰の先輩に向かって説教する。もう必死でした。
私は、毎日、毎日、繰り返して詩篇68:10を唱えて祈りました。
霊的に貧しい者に恵みを備えてください。そのように毎日、毎日、必死に祈った思い出の御言葉であります。
霊において貧しさを自覚する。神により頼まないと生きてゆけない。自分の貧しさを自覚して、恵みを求めるのです。祝福を求めるのです。その人をイエス様は幸いだといわれるのです。
そのような私の原点があるから、歴代上4:10の「ヤベツの祈り」に出会ったとき、これだと思いました。
神様、私を祝福してください。祝福を求めるのです。そこに心の貧しさがあるのです。
「私を助けて下さい」「私のために祈って下さい」。そのように言える人が心の貧しい人です。
ルカは貧しくない人を語ります。それは今、豊かで食べ飽きた人です。自己満足に浸ることが、貧しさの逆です。
神様、私を祝福して下さい。いつも謙虚にそのように求めることができ、祈ることが出来る人々に向かって、イエス様は「ああ、なんと幸いな人だ」と言って下さるのです。