2021年8月15日の説経要約
「悲しむ者の幸せ」 中道善次牧師
≪マタイ 5章4節≫
アウトライン:① 悲しむことは泣くこと ② 悲しむことは痛みを負うこと、③ イエスは悲しみの人
1、 悲しむことは泣くこと
ルカの平地の教えを見ると、「悲しむ者」という言葉が出てきません。その代わりに「泣いている者」という言葉が、ルカ6:21の後半に出てきます。「今、泣いている人は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」
またルカ 6:25の後半では、「悲しみ泣く」という表現があります。「今、笑っている人々、あなたがたに災いあれ あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
ルカは、悲しむことを泣くことと理解しています。
ルカが示している「悲しみ泣く」とは、愛する者を失った悲しみであり、涙であると理解することが出来ます。
その姿を描いているのが、ルカ7:11からの「やもめの息子を生き返らせる」という物語です。
ルカ 7:11~15をお読みします(掲載は省略します)。
イエスが死人を生き返らせた奇跡は福音書の中に三つでてきます。
一つは会堂司ヤイロの娘。二つ目は、ヨハネ福音書の中にあるラザロのよみがえり。三つ目は、ルカ7章のナインのやもめの息子が生き返ったことです。
不思議なことに、ルカ7章の奇跡の物語には、母親の名前も、よみがえらされた若者の名前も記されていません。
この物語から聞いた説教があります。その説教題は、「泣かないでいなさい」でした。
口語訳では、イエスの7:13の言葉は「泣かないでいなさい」とあります。私は、母親を叱るような響きを感じました。
しかしこれは「泣いてはいけない」と叱る言葉ではありません。協会共同訳では、「もう泣かなくともよい」と表現しております。「もう」の言葉の中に、慰めに満ちたイエス様の優しさが含まれていると思います。
「慈しみ深き」(新聖歌209番)は、有名ですが、新聖歌210番は、同じメロディで旧聖歌の歌詞「罪とがをにのう」が掲載されています。その2節を紹介します。
2節 ♪試みの朝、泣きあかす夜 気落ちせず全て 打ち明けまつれ
われらの弱きを 知れる君のみ われらの涙の もとを読み給う♪
「われらの涙のもとを読みたもう」という歌詞が、「もう泣かなくともよい」というイエスの言葉と響き合うのです。
そして、「もう泣かなくともよい」の言葉をかける前に、イエスは、この母親に深い同情を寄せられたのです。
この「深い同情」という言葉は、ルカ福音書の中で、よきサマリヤ人の譬と、放蕩息子の譬に使われています。
サマリヤ人の譬えでは、傷ついた人を見て、サマリヤ人が憐れに思って、近づき、介抱した。
放蕩息子の父親は、息子が帰ってきたときに、憐れみの心に動かされて、思わず走りよった。
私たちの悲しみや涙に、心を痛めるイエスの姿があるのです。
2、悲しむことは痛みを負うこと
マタイ福音書を見ると、「貧しい者」を「心の貧しい者」と表現したのと同じように、「泣く者」を「悲しむ者」と表現して、悲しみを広げて理解しております。
悲しみとは、痛みを覚えることであり、病を抱えることであります。自分の弱さと痛みが、悲しみと結びついているのです。
マタイ8章で、イエスについての預言の言葉が引用されている言葉を紹介します。
協会共同訳では、マタイ8:17で、「彼は私たちの弱さを負い、病を担った」
口語訳では、マタ 8:17 「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」とあります。
次に引用された旧約聖書の箇所イザヤ53:4を協会共同訳と口語訳で比較します。
協会共同訳 イザヤ53:4では、「彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった」
口語訳、イザ 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
マタイが「悲しむ人は幸い」と言っている悲しみは、苦痛であり、痛みであり、弱さであり、病であることがわかります。
口語訳の「悲しみ」は、ヘブライ語では、痛み、です。それは肉体的な痛みであり、精神的な痛みであります。
出エジプトの際、神は奴隷として苦しむイスラエルの「痛み」を知っておられました。
出 3:7 主は言われた、「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。
イエスが担った病は、私たちの肉体的弱さであると同時に、心の痛みでありました。
イエスと同時代に生きていた人々は、病気になると、体の痛みを抱えるだけでなく、引け目を感じて生きていました。
福音書の中に、手を伸ばすことが出来ない人が癒やされた記事があります。
手を伸ばすことの出来ない人は、石工でした。
彼も神を信じており、安息日に会堂に来て、礼拝をしていた。しかし人々の目を避けるように会堂の隅っこに座っていた。石工は、手が萎縮していただけでなく、心も萎縮していたのです。
イエスは手の萎えた石工の男を癒やすために、彼に命じたのです。「みんなの真ん中に来て立て」と。
それは萎縮した心を癒やすため、伸ばすためでもあったのです。
イエスは「痛みを担われた」、「悲しみを担われた」。それは、「担って、どこかに持って行った」という意味であります。イエスは、痛みと悲しみを十字架の上に持って行き、そこに釘づけられたのです。
3、イエスは悲しみの人
「悲しむ人々は幸い」と語られたイエスご自身が、悲しみの人でありました。
口語訳聖書では次のようになっております。
口語訳 イザ 53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
イザ 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
協会共同訳では「痛みの人」、「痛みを背負われた」と訳されています。
イエスは悲しみの源である罪を身に負われました。
イエスは、罪を、病と痛みを十字架に釘づけて下さり、取り除いて下さったのです。
山上の説教は、悲しむ者への慰めのメッセージです。その慰めとは、ヘブライ語では「ナホーム」です。
それが語られている旧約聖書の箇所にイザヤ40:1があります。
イザ 40:1 「慰めよ、慰めよ、私の民を」とあなた方の神は言われる。
ヘブライ語聖書では、ナホーム、ナホームという言葉で始まります。
イザ 40:2 「エルサレムに優しく語りかけ これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち その過ちは償われた。
そのすべての罪に倍するものを主の手から受けた」と。バビロンからの解放が、ナホーム、慰めであります。
私たちにとっての慰めは、イエス・キリストの到来であり、主がもたらした救いであります。
使徒 3:20には、次のような言葉があります。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、あなたがたのために
定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
クリスマスの時、♪ああ、慰めの訪れ♪と賛美します(旧聖歌128番「たがいによろこび」の折り返し)。
イエスがこの地上に来て下さったことが、私たちにとって「慰めの訪れ」であります。