2021年8月8日の説経要約 「神から逃げる人」

2021年8月8日の説経要約 

                              「神から逃げる人」  中道由子牧師

        ≪しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。≫

                                                                           (ヨナ書1章1~16節)

 

 1、従順でない預言者

 ヨナは、北王国ヤラブアム二世の時代、紀元前760年イスラエル領土拡大を予言し人気があった預言者でした。(列王記下14章25節)

 そのヨナに神様は敵国アッシリアの首都ニネベの宣教命令を発令されたのです。

それは、滅亡の予告、悔い改めの促しでした。

ヨナ書1章2節「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」

私たちは、置かれているところで主に仕え、神の言葉を語るように召されています。

そのために、私たちは選ばれていますが、現代は、喜びの訪れを届けようと思っても受け付けない世の中となっていることを感じます。

そのような現実の中で主は立って行きなさい、と言われる。

なぜアッシリアのニネベに宣教に行かなければならないのか?

2節「彼らの悪は私の前に届いている。」と裁きのメッセージを語られたのでした。

この使命を委ねられた時、ヨナはすでに預言者として人気者でした。

しかも、同胞イスラエルに対する罪や審判の宣告、預言は受けていなかったのです。自分の国の民に喜ばれていた、その平穏な日々をかき乱したのが、この主の命令でした。

なぜ自分が?どうしてあの悪名高い汚れたアッシリア人の都ニネベなのか!とヨナは、ニネベを嫌い、この使命を不愉快に思ったのでした。

神を恐れないニネベの人に主の言葉を語っても、笑われるに違いない。

ニネベなどに宣教に行ったら、イスラエルの人にも嫌われ、きっと見捨てられるに違いない。ひょっとしたら、憐み深い神が、ニネベを滅ぼすことをしなくなったらもっとみじめだ、自分の意図に反する。

そんな心の思い煩いを抱えながら、出かけて行くとちょうどタルシシュ行きの船が停船していたのです。

「これこそ主の御心だ」と思って、ニネベとは反対方向のタルシシュ行きの船に乗りました。

私たちの中に道が二つある時に、どのような基準で選ぶでしょうか?

自分にとって都合の良い道、それを御心として選ぶことはないでしょうか?

そのような時、神様は御心についていくつかの方法で知らせてくださいます。

何よりもみ言葉によって確信させてくださる。そして、環境や状況やタイミングも判断の助けになります。あるいは、牧師や兄弟姉妹を通して、更には未信者の人々をさえ用いて、神はみ旨をお示しになられることがあります。

いずれも自分勝手に自分に都合がよい判断をしないことでしょう。

ヨナの場合は、誰にも相談ができなかった。

ヨナの決断は逃亡することでした。

み言葉に反し、誰にも相談せず、ただタルシシュ行きの船がちょうど来たことで、環境によってのみ判断したのです。 

 神が喜ばれる歩みではなく、自分を喜ばせる歩みを決断したヨナに起こったことが4節にあります。「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。」

主は言うことを聞かないヨナを正しい道に導こうとされたのです。

船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫び声をあげ、積み荷を海に投げ捨て、舟を少しでも軽くしようとしました。

 ところが、ヨナは船底におりて横になり、ぐっすりと寝込んでいました。ヨナの不従順のゆえに多くの人が恐怖に陥れられたにもかかわらず、ヨナは熟睡していたのです。

 

2、神を恐れる人々

船長が、「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」とヨナを起こしに行きます。

水夫たちもなんとかしようとして、一生懸命対処しようとしている。

ヨナは起きてきて、どうやら自分の罪のせいだと認め、「私を海に投げ込んだらいい。」とやっと死の覚悟を決めます。ヨナが預言者として足りなかったのは、この覚悟です。それでもこの水夫たちはなんとか船を漕いで陸に戻そうとしました。

 どうしてヨナのせいでこの大嵐が起こったか分かったかというと、くじをひいてヨナに当たったからでした。

船の人々からの質問にヨナは、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を恐れる者だ。」と答えて、人々に主の前から逃げてきたことを正直に白状しなければなりませんでした。

「私は主を畏れる者だ。」と言って自分の素性を話します。神のみ言葉に逆らい、従おうとしなかった自分の罪の告白をしたわけです。 人々は非常に恐れ、ヨナに言います。「何という事をしたのだ。」

世の人々は見ています。クリスチャンなのになんでそんなことしたのか、と言われたら自分の不利益だけではないのです。本当に面目ないことです。私たちは不完全であります。

でも、イエス様は違います。

テモテへの手紙二2章12,13節「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。

キリストは御自身を否むことができないからである。」

主は、御自身が神であること、ご自身の使命、あり方を否むことなど神の御性質としてできないのです。

私たちは、たとえ不器用であってもいい、誠実な歩みをしたいと思います。

一方、水夫たちは、事態をなんとかしたいと一生懸命になっていました。神は水夫たちに神を畏れるという変化をもたらされたのです。

ヨナの失敗が神様によって用いられ、神に導くようにされました。

私たちは真の神を知るものとして、行いと信仰との調和が必要です。

私たちが信じている神を人々にどのように伝えるでしょうか?

ヨナは「天と地を造られた方」と紹介しました。

真の神を知らない人であっても、善良な人もいます。

反対にヨナのように真の神を信じていても人に迷惑をかけていたら、片手落ちであります。

私たちは、生活のすべての面で神様がいらっしゃることを証していきたいと願います。

 

3、ヨナにまさるお方

 新約聖書でヨナとイエス様が比較されている箇所があります。:

マタイによる福音書12章41節 「ニネベの人たちは裁きと時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

ヨナは自分の背きの罪で、山から海に下ったが、主イエスは他人の罪の代価を支払うために天から地に下られました。

ヨナは人々に尋問されてヘブライ人だと言いましたが、主イエスは自ら、神の御子であることを公言された。

ヨナは主のみ顔を避けて限界まで落ちてから、主によって引き上げられたが、主イエスは父の御顔を仰ぎ見、父の御心に従い、罪人の代わりに神から全面的に見捨てられて黄泉にまで下り、そして天の父によってよみがえらせられた。

 ヨナは、不本意ながら死を覚悟したが、主イエスは罪のない方なのに私たちの罪を負うために自発的に十字架上での死に向かわれた。

ヨナの場合、水夫たちが自分たちが滅びないように神に嘆願しているのに対し、主イエスは、ご自分を十字架につけた者のためにとりなしをしておられる。

 ヨナが神の裁きを告げ知らせた時、彼らはその宣告も預言者ヨナも受け入れた。ところが、主イエスは、ご自分の国に来られたのに、民は激しく拒絶しイエスを退けた。

 ヨナが海中に投げられて、神の怒りが止んだのに、主イエスはカルバリの丘の十字架上に上げられて、一切の罪が処罰され神の怒りがなだめられた。

 主イエス様は、私たちのためにすべてをなげうち、ささげてくださいました。

その神様があなたを宣教のために用いたいと願っておられる。

私たちはどのように答えるでしょうか。