2018年12月23日の説教要約 「その名はインマヌエル」

2018年12月23日の説教要約
   「その名はインマヌエル」   中道由子牧師
≪「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。≫ 
                      (マタイによる福音書1;18〜25)

 ヨセフとマリアの結婚
当時のユダヤの結婚は親が許嫁を決めたのです。三段階の過程を経て結婚するそうです。第一段階は婚約。これは幼い時、両親が決めるもので、結婚は重大なことだから当事者同士の感情だけでは十分ではない、と考えたのです。これは法的な効力は持たないものです。
第二段階は結婚を決める段階で、本人たちが婚期に入り、本人も親も承諾する、ヨセフとマリアはその時期でありました。ミシュナというユダヤ教の律法の説明書には「たとえ結婚ほどの十分な結びつきが婚約にはないとしても、やはり離縁するほどの強い結びつきはある」と書かれています。彼らは婚約証書というのももっていたのです。婚約解消はとてもむずかしく、結婚した者が離婚するのとおなじくらいの手続きが必要だった。婚約は結婚と変わらなかったのです。婚約破棄は、当時は離婚ということでした。
だからマタイ1;19でヨセフはマリアを離縁しようと考えたと書かれています。
マリアとヨセフが婚約証書をかわした婚約期間中に、マリアが身ごもった。ヨセフにしてみれば身に覚えのないことです。
申命記22章23、24節、律法によれば、マリアは石打の刑で殺されてしまいます。
ヨセフはマリアの妊娠を公にしないで密かに離縁しようと決心した。聖霊によって身ごもったのよ、と言われて信じられると思いますか?普通はマリアが他の男性と不品行の罪を犯したと思うでしょう。いろいろ悩んだと思います。結婚前に妊娠したとなれば社会から追放される可能性もあります。ここでヨセフにも御使いが現れます。
御使いは、救い主の受肉とマリアの役割を告げます。そしてヨセフは夢の中の御使いの言葉を信じたのです。信じるか、信じないか、大きな賭けの様に感じますが、彼はそうなんだ、これを選ぼうと決断できたのです。中傷をあびること、村から追放されることまで、含めてヨセフはマリアを受け入れたのです。
ペトロ第一の手紙4章14節「かれはキリストのために受けるそしりを喜んで受けた」

1,処女降誕
処女降誕は、普通の夫婦の肉体的な交わりを通して受胎したのではない、ということです。イエス様は人間として生まれなければなりませんでした。人としての肉体を持つ必要があったのです。マリアはそのために用いられた主が備えられた器だったのです。女性の体を通して赤ちゃんとして生まれてくる必要があったのです。イエス様が肉体を必要とされたのは、人間の罪を贖うために十字架上で血を流すためです。これほど目的を持って誕生した方が他にいるでしょうか。
レビ記17章11節「血はその中の命によって贖いをするのである。」
エス様がこの地上に来られたのは、人間の罪を贖う犠牲となるためでした。そのためにイエス様はきよく汚れのない人とならなければならなかった。これを可能にしたのが聖霊を父とする誕生でした。人類の代表としてアダムが負った原罪をイエスの人格が受け継ぐことがないためでした(ローマの信徒への手紙5章12、15節)。
処女降誕は、人の頭では理解できない。人が理解できるあり方でイエスが生まれたとしたら、神の業とは言えない。処女降誕は神秘的な奇跡的な出来事です。だからこそ神様がなさることと言えるのではないでしょうか。

2,預言された名前
エス様の名前は親が決めたのではなく、神がその目的を持って名付けられました。ヨシュアという名前の発音をギリシャ語で表記すると「イエスース」となります。それを日本語で「イエス」と書いているのです。ヨシュアというのは、「主なる神はわたしの救いだ」という意味の名前です。しかし、当時の人々には、ごくごく当たり前の平凡な名前でした。ですからマタイによる福音書による限り、当時の周りの人々に、このクリスマスの出来事はちっとも知られていなかった。どこにでも起こる一人の男の子の誕生としてイエス様は生まれました。
 もうひとつのイエス様の名前は、「インマヌエル」です。マタイ1章23節のイエス・キリストが処女から生まれることの預言は、イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」からの引用です。この預言をしたイザヤは紀元前700年代の南王国ユダで活躍した預言者でした。
強大なアッシリア帝国が南王国ユダを征服しようとエルサレムに迫った時のことです。
イザヤ書7章3節「主はイザヤに言われた、『落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」「動くことを止めて、神に信頼しなさい」と。
私たちも、何か困った事に直面すると、お祈りの前に、あわてて何かの行動を取ろうとしませんか。しかし神は、静かにして祈ることを求められるのです。
イザヤは、スリヤもイスラエルも恐れるに足りない。神様を信頼しなさいというのです。そしてそのために「しるし」を求めなさいと語るのです。神様の助けなど必要ないというアハズに、イザヤは畏るべきお方は主のみであることを語り、その続きとして語られたのがインマヌエル預言です。ここで、預言されたインマヌエルとは、一体誰のことでしょうか?イザヤにとっては、「彼が、そうではないか」と期待したインマヌエル君がいました。アハズから生まれたヒゼキヤ王という説もあります。しかし、イザヤは、やがてヒゼキヤに失望することになります。インマヌエルが誰なのか?当時、誰もわからなかったのです。そしてそれでよかったのです。マタイ福音書1章で、イエス様がお生まれなさって、初めて、みんなわかったのです。インマヌエルとは、目に見えない神様が共におられることです。目には見えないけれども、あなたの側にいてくださる神様がおられます。