2018年12月16日の説教要約 「羊の門なるイエス・キリスト」

2018年12月16日の説教要約
「羊の門なるイエス・キリスト」  村岡貞海牧師
ヨハネによる福音書10:1〜10>


中心聖句9節 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
当時は羊を飼うなどの牧畜生活をする人が多くいました。多くの羊が飼われていました。
ユダヤの人たちはもともと羊を飼う人々でした。創世記のアブラハムヤコブの記事で分かります。ですから、神が羊飼いで、人間が羊であると聞けば、そこから神と人間との関係を身近に感じることができました。
それでイエスも、ご自分を「羊飼い」と呼び、イエスを信じイエスに従う人々を「羊」と呼び、人々の身近な関係から、イエスとイエスを信じる者たちの関係を教えようとされました。
羊飼いたちは良い牧草を与えるために移動するので原野に石で囲いを作り、その中に羊たちを集められました。羊たちが出入りするためには必ずこの入口を通らなければなりません。
羊の安全を守り、導く、羊飼いが門の替わりとなって、横になって寝ているのです。
羊が出入りするためには、必ず羊飼いを通っていかなければならないのです。
牧者自身が羊の囲いの門となって、羊たちは出入りできるのです。それは、イエス・キリストを通してのみ、私たちは安全であり、命が守られることを意味します。
羊飼いたちは羊たちの特徴を良く知っていて、一匹一匹に名前を与え、覚えているそうです。
門を通して出入りするために羊も羊飼いの声を聞き分けて、従って行くのです。
良き牧者は羊の命を守り、羊に豊かな牧草を与えます。
節を追って、3つのポイントで、順番に御言葉を学んでゆきます。


1.イエス・キリストの御声を聴く:1〜2節です
先ず羊のことを詳しく見ます。羊は弱い動物だと言われています。
羊は視力があまり良くなく、かなり近いものしかはっきり見ることができないそうです。
また、臆病で不器用なところが有るということです。そのため、目の前を先導してくれる人や動物について行かなければなりませんし、それを見失うと簡単に迷ってしまうことになります。
 1-5節を黙想している間、強い絆を感じました。通じ合う関係を感じます。目がよく見えず、弱さもあり、臆病で、不器用な羊なのに愛されています。
羊飼いは羊たちを心配して眠れないほどです。羊が困る時は駆けてきて、羊飼いは手を伸ばします。いつでも羊の声を聞いて、一匹一匹の名前も良く知っているのです。
羊飼いは、羊が百匹近くいても、羊の一匹一匹に名前をつけてその名を呼ぶのだそうです。動物園や牧場で羊を見た人も多いと思いますが、私たちが見ると、どの羊もみな同じに見えます。しかし羊の世話をしている羊飼いは、一匹一匹の特徴を良く知っています。
それで一匹一匹に名前をつけるそうです。
 1-2節を見ます。1節 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いに入るのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 2節 門からはいる者は、羊の羊飼である。
ここでは、羊に近づく人の話をしています。羊に利益を与える人は羊飼いです。害を与える人は盗人や強盗です。羊が盗人や強盗に会うと死に、羊が良き牧者に会えば命が与えられると言うことです。盗人や強盗が羊に近づく理由は盗むためであり、殺すためです。自分の利益の為に近づきます。羊の羊飼いは羊に近づく理由は命を与えるためであり、羊の利益を与える為に近づきます。
 私たちの心にいつも闘いがあると思います。イエスを信じる心を奪って行く盗人のサタンの声に耳を傾けるのではなく、救い主イエスの声を聞き分けるのです。そのために御言葉に近づくのは大切なことです。イエス様は、罪の束縛と罪責感から私たちを救うために、この地に来られました。
完璧な行動によっては救われません。ただ恵みによって救われることを信じる時、心が新たにされます。今日の御言葉を読みつつ、自分の古い自我の罪を悔い改めつつ、十字架で贖われ、新しく命を与える為に近づいてくださるイエスに従いたいと思います。


2.イエスと私たちの関係:3〜6節です
3-5節には、羊と羊飼いの関係が詳しく書かれています。
以下の言葉に注目して下さい。
門番は彼のために門を開き:これは「イエスに心を開く」ことです。羊は彼の声を聞く,羊飼いは自分の羊の名を呼びます。連れ出してくださいます。羊の先頭に立って行くので導いて行きます。羊が先頭に立つのは非常に危ないことです。羊飼いは、羊の群れの先頭を歩き、その道が安全かどうかを確かめます。羊はあまり賢い動物ではありませんので、どこに行けば牧草にありつけるのか、どこに行けば水が飲めるのか知りません。羊は、また、遠くまで見ることができませんし、自分たちを襲ってくる獣の気配を敏感に感じることができません。ですから、羊飼いは羊の先頭に立って羊を導かなければならないのです。羊もまた羊飼いに従っていかないと、食べ物を得られないばかりか、危険を避けることができずに、道に迷って命を落とすことにもなりかねないのです。
羊はその声を知っているので、彼について行きます。羊はほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。羊飼いは羊に関心があり、命を与えようとして、連れ出してくださいます。私たちは心を開いて、イエスの声に耳を傾け、関心を持って従って行きましょう。そのことで美しい良き関係が築かれて行きます。
6節 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。の比喩とは、羊と羊飼いのことです。それが分らない人々がいました。
その人々を非難せず、叱らず、責めるのではなく、何回でも説明してくださっています。
私たちも愛する人々を心から思い、諦めず何回でも、相手の声に耳を傾けて、心の声を聞くのは大切です


3.イエスは救いの門である:7〜10節です
当時の羊の囲いは、良き草を与えるために、山や野原につくります。臨時に作っているので、門がなく劣悪な環境でした。
それで羊飼いが出入り口で横になって門となり、羊の夜番をしつつ、守っていました。
羊が出入りする度に、名前を呼んで、安全な囲いの中に入れてくれるのです。羊飼いを通してのみ入ることができるのです。
エスが「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われたのは、イエスを通って囲いの中に入るとき、私たちは、そこに本当の平安を見つけることができます。そこにたましいの安らぎがあります。
エスキリストを通してのみ永遠の命を得ることができます。
それで羊飼いの声を聞くためには、祈り御言葉を読み、黙想することは大切です。
 イエス・キリストは私たちを一足一足、確実に導いてくださっています。
イエス・キリストが父なる神様を知っているように、私たちにも同じように優しく教え示してくださっています。このような驚くべき愛で接してくださいます。
牧者は羊の声を知り、羊は牧者の声を知る。
私たちの日々を導き、助け、守り支えてくださる方に従う日々を歩んで行きましょう。