2018年5月27日の説教要約 「恵みの家」

2018年5月27日の説教要約
『恵みの家』    村岡貞海牧師
 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」
ヨハネによる福音書5:1-9)

今日の聖書箇所をまず全体的に見ましょう。ユダヤ人の祭りの時に、イエス様はエルサレムに上られます。神殿の城壁には羊の門がありました。羊の門の近くにはベテスダ池がありました。この池で、神殿に献げる犠牲の羊が綺麗に洗われました。
ベテスダの池を囲む廊下には多くの病に苦しむ人々がいました。まるで病院のようです。38年病気で悩んでいるある男の人の所にイエスは来られ、会いました。イエスは、その病人が横になっていることを見て、また長い間苦しんでいたことを知っておられたのです。そしてその人に「治りたいか?」と言われました。この病人は「主よ、水が動く時に、私を池に入れてくれる人がいません。」「私が入ろうとすれば、他の人が先に降りていきます。」と答えています。しかし、「ハイ、治りたいです。」「助けてください」とは言わないのです。何故でしょうか? この男の人は、数十年の間、病気で患っていました。それによって、エルサレムの神殿の近くにあるベテスダにいます。ベテスダのヘブル語の意味は、「恵みの家」と言われます。集まっている深刻な病気の人々は、みな癒しを望んでいました。治りたいはずでした。もう諦めてしまったのでしょうか。
 イエス様は38年も苦しんだ病人、名前も知らない人でしたが、病んでいるのを見て苦しみを知っていたので、一方的に癒して下さいました。
そのような奇跡をヨハネは、福音書の終わりで、次のようにいっています。
ヨハネ20:31しかし、これらのことを書いたのは、あなたがイエスは神の子キリストであることを信じているものであり、またそのように信じて、イエスの名で命を得るためである。



1、羊の門のそばにある恵みの家(1-2節)
ユダヤ人はエルサレムの神殿に行く3つの祭りがありました。イエス様も行かれました。神殿は城壁に囲まれ、そこには多くの門がありました。
ネヘミヤ3章を見ると、城壁再建工事がなされ、多くの門の名前が出てきます。羊の門を始め、魚の門、古い門、谷の門、糞(ふん)の門、泉の門、馬の門などを作りました。用途に応じて使われる門もありました。羊の門は祭壇に捧げる羊を通らせるための出入りさせる門が羊の門でありました。
羊の門があるそばにベテスダの池があった。池の意味は、恵みの家という意味です。
ベツレヘム、ベテル、ベテスダの「ベ」の文字は、正確に発音すると「ベッ」で、家の意味を持っています。二つの文字が一つの単語になって、ベツレヘムはパンの家、ベテルは神の家、ベテスダは恵みの家という意味です。
 恵みの家と呼ばれるベテスダの単語の後半の言葉は、ヘブル語のヘセドの意味を持っています。非常に重要な単語であり、神様の愛や真実を現す言葉です。教会の賛美の時間は力強くヘセドの神を賛美する時間だと思います。
神様の愛、慈しみ、癒し、力を示す言葉であり、代表的に恵みだと言えます。
ヘセドの神様はどんな方であるかと記憶し、心に刻んで大事にすることは重要だと思います。 
どころがベテスダの家の恵みの池には、人々の間で伝わる伝説がありました。その伝説によると、天使が降りてきて池の水を動かすのですが、その直後、初めてに入る人は、病気が治るという言葉でした。それで、病気が治ることを望む人々は切実な気持ちでベテスダ池に集まっていました。
みんな神様の恵みを求めていたのです。神さまの愛と癒しを求めていたのです。私たちもそうではないでしょうか。 


2、治りたいが助けてくれる人がいない。(3-7節)
一つ目に、ここには助けが必要な現実がありました。
羊の門のそばに、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者たちが恵みの家と呼ばれるベテスダの池に集まって、大勢からだを横たえていました。それは天使が降りて来て水を動かすのを待っていたからです。
エス様が声を掛けた時、38年のあいだ病気に悩まされた人は誰も助けてくれないと嘆きます。不平を言い、自尊心に傷を負っています。7節の「私を助けてくれる人がいません。」 行こうとしても、他の人が先に行くという競争社会の無情さがあるということです。お互いが仲良く助けていたら、自分の利益がなくなるため、助けることができないのです。下手に助けたら、踏みつけられることさえあるかもしれません。
二つ目に、ここには行為か恵みかを問う問いかけがあります。
天使が降りてきて、水が動くとき、私が入ろうとしても、すぐ他の人が先に入ります。なぜ先に入れないかと言うと38年のあいだ病気に悩まされた人なので力がないのです。方法がないということです。水に入れてくれる人がいないです。
そこにイエス様が近く来られました。イエス様は水によって治すのではないのです。イエス様が直接38年のあいだ病気に悩まされた人を直してくださるのです。8イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。動く水に入る行動ではなく、イエス様のヘセドの恵みでした。
38年のあいだ病気に悩まされた人は天使が水を動かしてくれると治ると思っています。しかし入る方法と力がないのです。それは律法や行動によっては、治ることが出来ないことを意味します。私達はみんな霊的な病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者であります。それでも私たちは、最初にそこに入りさえすれば治ると思い続けます。恵みが与えられる時、どのようして一番早く走るべきかを考える必要はないのです。
ギフトをくださるイエスがここに来られたら、水が動くのを見つめる必要はないのです。


3、病気を治してくださるイエス(6,8-9節)
6節イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。名前も記録されることのない病人でしたが、イエス様は見ておられ、その苦しみを知っておられ、優しく声を掛けてくださいます。同じようにイエスさまは、ここにいる私たち一人一人を見て、知って、声を掛けてくださっています。
8節イエスは「起きて床を持って歩いてください。」と言われます。この言葉は、諦めの床を取り上げ、自ら起きて決断して歩きなさい、という言葉です。他の人を意識せずに、あなた自身が神の前に正しく立つように、神の力を信じて、決断して前に進みなさいという言葉です。
 イエス様は38年のあいだ病気に悩まされた人に、水が動くのを望まず、神の言葉を聞いて、その言葉にアーメンと答えて起き歩く信仰を要求しておられます。
先着順の競争すべき論理が支配するベテスダ池で、挫折して絶望の中にいる病人を治してくださいました。38年のあいだ病気に悩まされた人を思うと、私たちの姿を見る思いがしました。

最後に真の安息日の主であるイエス様が9節に描かれています。
エスにとって安息日は、生命を生かし保護する日でした。
安息日の本質は、生命と自由を提供することであって、死と束縛を意味するものではありません。
本来の安息日は人を生かし回復させるために、神様がくださった祝福の日です。
それをユダヤ人が歪めてしまいました。
エス様は、ユダヤ人の歪んだ視線があったにもかかわらず、安息日に病人を癒してくださいました。
エス様の癒しの奇跡は、安息日の真の意味をよみがえらせています。
エス様の癒しの奇跡は、安息日に人間の霊肉ともに解放を受けることを示しました。
このように、安息日の真の意味である命を生かすことを通じて、イエス安息日の主であることを見ることができます。主イエスキリストは病を癒す力のある神の子です。
それを覚えて、感謝するとき、生命と真理を体験することができます。
エスキリストと出会っても、人には言えない自尊心があります。自分では気づいていない無知や愚かさがありますがイエスキリストは私たちを神様の恵みによって癒しと新しい生き方を恵みと愛に満たして下さいます。
エスの命に溢れ、神の真理に生きる者とならせていただきましょう。