2018年5月20日の説教要約 「助けてもらう賜物」

2018年5月20日説教要約 「助けてもらう賜物」  中道善次牧師 
(コリント第一 12章) 

ある時、「自分の弱さを認めて、他の人に助けてもらう」ことを受け入れました。その体験が、「助けてもらう賜物」という考えを持つきっかけとなりました。

①賜物の発見以上に大切な事

1コリント12章には聖霊の賜物について書かれています。
私はかつて、賜物発見のための調査リストを使っていました。135の質問に答え、上位3つの賜物を発見するシートです。
しかし、残念だと思う結果が現れたのです。多くの方が、「補助者・助け」の賜物と「奉仕」の賜物が顕著でした。これは日本人の性格によるものが大きいのです。
賜物と性格は関係があるのです。日本人は、控えめで、前に出たがらない。だから、補助的な役割、人に仕える役割を取ってしまう。それが賜物の発見リストでも明らかでした。
しかし次第に気づいてきた事があります。「あなたの賜物は・・・」と特定する事がそんなに大事なのだろうか?
例えば、音楽ですが、聖書の中には、賜物リストには載っておりません。今までのキャリアで身につけてきた能力といえます。
また小さな教会であればあるほど、賜物に関係なく、あの奉仕もこの奉仕もやるしかないというのがあります。
もてなしの賜物というのがありますが、お世話好きの性格の人なら、賜物のあるなしに関係なく、その傾向があるのではないでしょうか。
献げる賜物、伝道の賜物、執り成しの賜物というのがあります。しかし、クリスチャンなら普通にやることの中に、祈りと献金と伝道があります。賜物ある人だけが、祈ればいい、伝道すればいい、献金すればいいとなったら、教会はおかしな事になってしまいます。賜物のあるなしは、奉仕をしない言い訳にしてはいけないのです。
賜物という聖書の記述から私たちが何をメッセージとして受け止める事が重要なのでしょうか?
それは、神様からの励ましであり、主の教会に仕えるために、私たちは救われたのだということを知る事です。
自分には何もないと思う傾向のある人々を神様は励ましておられるのです。神はあなたが教会に仕える事を期待しておられるのです。

②賜物の個人プレーはない

自分の賜物を発見して、それを用いれば、神の業が進む。そう思っていましたが、「空回り」している自分に気が付きました。
そして祈りました。神様、私には助けが必要です。
神は、そのような私の叫びに答えて下さいました。自分よりも年上の協力牧師が派遣され、またアメリカ人宣教師が派遣され、チームとして働きを進めることが始まりました。
そして二つの言葉を使うようになりました。
「私には助けてもらう賜物があります」
「チームで働くと聖霊の化学反応が起こります」
1コリント12:22〜26の言葉の中に、賜物を用いる秘訣を発見しました。それは弱く見える人がいなければ、誰も賜物を活用して奉仕する事がないのです。助けを必要としている弱さがあることが、実は、隠されたもうひとつの賜物なのです。
助けの賜物は、助けられる人がいなければ、用いる場所がありません。
リーダーシップの賜物は、その人の後ろについてきてくれる人がいなければ、空回りします。
教える賜物は、喜んで教えを受ける人がいなければ、一人で講義をしなければなりません。
受け手が優れている事で、賜物が引き出される事があるのです。
神様は、単独で人を用いる事をなさらないのです。12弟子が派遣されるとき、二人一組でした。
パウロバルナバや、シラスがテモテなど、チームを組んで働きました。
モーセにはアロンが、ダビデには預言者がいました。
賜物が違う者同士が一緒に働く、性格が違う者同士が一緒に働く、それらは簡単な事ではありません。しかし違いを乗り越えて、一緒に働くとき、一人の人が何かの賜物を活用することを超えた素晴らしい神様の働きを見る事が出来るのです。
萩園の協力牧師であったK先生は、宣教師と一緒に働くときに聖霊の化学反応を何度も体験したとおっしゃっておられます。ビル・ハイベルス牧師が、「勇気あるリーダーシップ」に書いている事を、体験的に証明されたのです。

③存在の賜物

ある時、兼牧についての懇談会をもちました。
ある先生が、ユーモラスに、私の妻には「存在の賜物」があるのですと言われました。
それは「存在感の強さ」を指しているのではなく、私たち一人一人が、かけがえのない存在であり、それが「存在の賜物」を与えられているということです。
聖霊の賜物というと、あれが出来る、これが出来る。あの奉仕をする。この奉仕をする。そのような側面に目がとまりがちですが、私たちは必ず、私には出来ることが少なくなりました、あるいは、だんだん何も出来なくなってきましたと言う時期が来るのです。
「かけがえのない存在」。それが、私たちが最後まで持つことが出来る、活用することが出来る賜物であります。
私たちの存在が尊いことを教えてくれる聖句を紹介します。
イザヤ書43章4節「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(新改訳)