2018年5月13日の説教要約 「いのちの食べ物」

○2018年5月13日の説教要約
『いのちの食べ物』            中道由子牧師
《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。》
ヨハネによる福音書 6章35節 、マタイによる福音書14章13〜21節)

1,神が与えて下さった食べ物
 今日の聖書の個所に出てくるのはパンと魚です。
人類が始めに食べていたものは何かというと、創世記1章29節をご覧下さい。
神様が私たち人間に与えて下さった食べ物は穀類、野菜、果物でした。
しかし、今は人間は肉も魚も食べます。
ではいつから人間は肉食になったのでしょうか。
創世記 9章1‭-‬4節 によると、‬ノアの箱船の後からでした。‬‬‬
人間と動物の関係はもはや創世記1章に書かれている平和なパラダイスのようなものではなくなりました。2節にあるように動物界には人間に対する恐れとおののきが支配しました。出産の命令と同じく、神は人間に動物への殺害行為をも許可したのです。ただいのちそのものである血だけは摂取しないように命じられました。 人間は動物を屠り、殺します。お肉を食べると元気か出るとか言います、命をいただくからです。動物だけではなく、もちろん植物も命をもっています。
 谷川俊太郎さんの絵本に「死んでくれた」というちょっとショッキングなタイトルがあるそうです。
「うし 死んでくれてありがとう。そいで ハンバーグになった。
  ありがとう うし」
心にズキンと来る言葉です。「いのちをいただくこと」の意味を教えています。人間は他の命をいけにえにして輝けるのだ、と。だから日本では、「いただきます」という感謝の一言があるのかもしれません。
それに似たような説明を聞いたことがあります。
佐藤初女さんというカトリックの方が青森県弘前市から車で1時間の岩木山の麓に憩いと安らぎの家「森のイスキア」を開いています。
佐藤初女さんの本の中にこんな一節があります。
「私たち人間は地球上のいろいろないのちを食べて生きている。食べるもの、すべてが生き物である。『いのち』が『いのち』を食べている。食材をただのものだと思うと、『いのち』として捕らえるのでは、調理の仕方が変わってくるんです。」
 初女さんは、食材がいのちとして一番よいものを出せる瞬間を「いのちの移し替え瞬間」と呼んでいます。お米の研ぎ方、スイッチの入れる時間、水加減、出来た時のほぐし方、よそい方、ご飯粒が呼吸が出来るように、と心を配るそうです。そして「森のイスキア」にいろんな人が訪れるようになったというのです。

聖書に戻りますが、
 本日の聖書箇所にありますマタイの福音書14章15節で、「夕方になったので」と書かれています。かなりの時間が流れて、夕食時です。
弟子たちは心配になりました。男だけで5千人いるのですから。「もう彼らを解散させて、自分たちで食べ物を買いに行かせて下さい。」と言うわけです。
すると、イエス様は、「あなたたちが彼らに食べ物をやりなさい。」とおっしゃる。そこにあったのは、大麦のパン五つとさかな2匹でした。「こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」というアンデレに対してイエス様は人々を座らせ、パンとさかなを取って感謝して人々に与えました。パン5つと魚2匹は、ひとりの食事に過ぎませんが、それによって5千人が食べても、残るという奇跡が起こりました。神様が奇跡を起こされるに種が必要でした。その種が5つのパンと2匹の魚でした。もちろん神様は天からマナを降らすこともお出来になります。しかし、ここではそうされませんでした。私たちが差し出すほんの小さなものを通しても神様は、みんなを生かすことができる奇跡を起こして下さいます
私たちが持っている物を分かち合うことで奇跡が起こります。
ヨハネの並行記事ではそれを持っていたのは少年でした。その少年が、パンと魚を食べていたら、一人のお腹が満たされるだけで、5千人は空腹のままです。差し出された物がイエス様によって祝福されて、奇跡が起こりました。
神様はご自分の子どもたちが食べて生きていけるようにいつも考えて下さっています。そして、分け合う時に奇跡は起こるのです。

2,食べることは交わること
 第1ポイントでお話しました佐藤初女さんの、安らぎの家「森のイスキア」を紹介している素敵な詞があります。
 「心病んだ人がやって来る。
  体を病んだ人がやって来る。
  重いのやら、軽いのやら、荷物を背負ってやってくる。
  そして、気が付けば、自分で荷物を下ろして帰って行く。」

 人は食べると心を開いていく。初女さんはこう続けます「食べると心の扉が開いて、順々に話し出してくれる、話していると、自分で答えを見つけていくんですね。」
 神様も私たちが苦しみ、落ち込む時食べ物を用意してくれます。

列王記上 19章1〜6節で、落ち込んでいたエリヤの枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になりました。
バアルの神に勝利したエリヤがイゼベルから命を狙われ、恐れで引きこもり、「私の命を取って下さい」とまで言っています。鬱状態です。
神様はエリヤに対して叱責することなく、食べるものと飲み物をくださった。6節にあるパンはちゃんと温かくトーストしてあったのです。英語の聖書では「cake」となっています。

エス様もまた復活後ペテロに現れて下さったとき、主を否定したペテロに対して魚を焼いてごちそうして下さったのでした。

ヨハネによる福音書 21章8〜13節で、 イエス様もペテロを励まし、大切な使命を伝える前にお食事を用意してくれました。
食べると人は心を開きやすくなる。茅ヶ崎教会のキッチンに私が書かせていただいた佐藤初女さんの言葉があります。
「食することは共におること」。皆が食事をするとき新しい方も心開いてくださるように、神の家族の輪が出来ますように、心寂しい人が食べてほっとしますようにとの願いがあります。
鵠沼教会で持たれるいろんな交わりの場も人々が重荷を下ろし、自ら答えをみいだしてくれる場となりますようにと祈ります。
エス様は言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
(ヨハネ黙示録3:20)
エス様と交わることもまた食卓をともにするような交わりであることを覚えていただきたいと思うのです。


3,天からくだってきた生けるパン
 ヨハネによる福音書 6章:50〜58節を読んでわかることは、イエス様の肉、イエス様の血をいただく者は永遠の命を得る、そして終わりの日によみがえるのです!
私たちが地上で生きるために神はこの身体のために食べ物を下さいました。
食べる楽しみも下さいました。生き物の命を私たちにくださいました。
しかし永遠に私たちが生きるために御子イエス・キリストの命を惜しげもなく下さったのであります。