2018年5月6日の説教要約 「わたしの心だ きよくなれ」

2018年5月6日 「わたしの心だ きよくなれ」   中道由子牧師

≪イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。≫ 
(マタイ福音書8章1〜4節)


1、理想と現実の狭間の中で
 8章の1節を見ると、イエス様が山から降りて来られたと記されています。
エス様は5章で山に登られ、そして山から降りて来られました。なぜ山に登り、なぜ山から降りて来られたのでしょうか。
 イエス様が山に登られた動機は、マタイ4;23〜25に記されています。
私たちはこの場面からどれだけたくさんの人々がイエス様に対する関心と好奇心に胸を膨らませていたかを想像することができます。このときイエス様は静かに山に登られました。
なぜなら、奇跡よりも更に大切なことは真理だからです。イエス様は山で、御国の真理を教えられました。山上の説教には奇跡がありません。落ち着いて、静かに御国の真理の中に留まらなければなりません。
私たちは奇跡のためにイエス様を信じるのではありません。御言葉のゆえに信じるのです。イエス様は御国の御言葉をすべて語られました。み言葉を語り終えられたイエス様は、再びこの世に降りて来られたのです。
 しかし、世に降りて来られたイエス様の心にはいつも現実がありました。信仰者は、山に登り恵みを受けると同時に、受けた恵みを持って山から降りて来て、この世に住むことでもあります。
これがまさに理想と現実の問題です。イエス様はいつも現実を注意深く観察されました。人々は、現実から苦痛を感じると、山に逃げてしまいます。教会に逃げます。そして罪だらけのこの世に対して無関心であったり、逃げようとします。それはイエス様の考えとは違います。イエス様は罪深いこの世で死なれました。罪びとたちの中に入って行かれたのです。イエス様が生きるべき現実は、山ではなく、世だったのです。
 イエス様は、まだ暗いうちに山に登って夜通し祈られましたが、祈りを終えられた後は、現実に戻られました。
一度はイエス様がペトロとヤコブヨハネを連れて山に登られました。そこで彼らは天の神秘を体験しました。モーセとエリヤに会いました。そのような神秘の体験を分かち合った後、山から下りて来られ、現実に戻られたのです。
 ここに私たちが学ぶべき二つのことがあります。
それは現実にだけ執着してもいけませんが、同時に理想にだけ留まろうとしてもいけないということです。恵みを受け、神に出会うために山という、神の御声を聞く場所が必要です。私たちは教会に来て、恵みを受けます。しかし、受けた恵みを持って私たちはこの世に戻って、キリストの愛を実践しなければなりません。
 彼らがイエス様と共に世に降りてきた時、ひとりの重い皮膚病を患っている方がやってきました。さっそく問題がやってきました。イエス様が山におられた時はこのようなことはありませんでした。世に降りて来られたとたんに、待っていた人というのは重い皮膚病を患っていたこの人だったのです。
レビ記13章にいろいろな種類の皮膚病が書かれています。医学が発達していない当時その皮膚病を判定、確認するのは祭司の役割でした。多くのこの重い皮膚病は、家族と一緒に暮らすことができませんでした。彼らは集団で洞窟のようなところで隠れて生活しなければなりませんでした。彼らが町に現れると、町の人々が石を投げてのろったりしました。「私は重い皮膚病を患っています」と大声で叫び、他の人が自分に触れないように知らせなければならなかったのです。なんと寂しく、惨めで辛い現実だったことでしょう。その重い皮膚病を患った人が、イエス様が山から下りるといたのです。
 私たちが深い恵みを受けると、いつも現実が待っています。現実を受け止め、しかし山でいただいた御言葉に立とうではありませんか。

2、信仰の一歩
 当時呪いと見なされていた思い皮膚病の人が、イエス様の御前に出てきました。
どれほど大きな決意を秘めていたことでしょう。

信仰の一歩はまず
①主の御前にでることです。
引っ張られて来たにせよ、いつもの習慣で来たにせよ、教会に来たという事実は信仰があるということです。
この重い皮膚病の人が、こんな大変な病にかかっていながら、イエス様の前に出てきたということは、信仰なしにはできない事実です。彼は多くの人から石を投げつけられ、呪いの言葉を浴びせられることを覚悟していたことでしょう。
②ひれ伏した。
ふたつ目は、イエス様の御前に出てひれ伏しました。
「ひれ伏す」という言葉はマタイによる福音書に13回出てきます。これは、「礼拝した」という意味です。彼はイエス様に軽く挨拶したのではなく、ひざをついて全身で謙遜と真実と純粋なそのすべてを捧げて、イエス様の前に頭を下げたのです。用いられている人ほど、頭を下げて奉仕する人でなければなりません。
③言った、告白したのです。
彼は自分の全人格を言葉に込めて神様の御前に注ぎだすように言ったのでしょう。
「私には思い皮膚病があります」と。イエス様を自分の父親であるように願い求めたのです。「主よ、私には深刻な悩みがあります。他の人にではなく、主よ、あなたの御前でお話ししたいのです。」これが信仰の告白です。
 ある人は、罪を告白しても決定的な瞬間には自分を隠します。
主の御前に自分を下ろすようなふりをしても下ろしません。なぜでしょうか。
恐れがあるからです。そして、プライドがあるからです。この思い皮膚病の人は自分をさらけ出しました。私たちは神様の前に全部をお見せしているでしょうか。
④切なる願い
 まずこの人は「主よ、」と告白しました。「イエス様、あなたは私の主です。」と告白したのです。
そして、新共同訳では「御心ならば」と言いました。「イエス様、私は病気が治ることを心から願っています。それが、主が願われることなら」と言ったのです。
人はだれでも自分の必要を先に考えるものです。ほかの人のことを先に考えることは簡単ではありません。重い皮膚病の人は、明らかに他の人のことを考えられるほど余裕のある立場ではありませんでした。お金もなかったでしょうし、服もみすぼらしいものだったでしょう。肉体的には日々の苦痛の中で最悪な状態で生きていかなければならない人でした。
他の人のことなど考えられない中で、それでもこの人は「主が願われるなら、主の御心ならば」と言いました。新改訳聖書では「お心一つで」という言葉になっています。イエス様には「お心一つで」この病を癒やすことができるという信仰があります。
信じることにより力が現れ、信じることにより奇跡が起こるのです。
エス様がどれほど力を持っておられても、私たちが信じなければ、その力は私たちのために現されません。ですから、私たちは幼子のように神様を信頼しなければなりません。神様は私たちを愛しておられます。イエス様は何でもできる力をもっておられます。イエス様に不可能はありません。この重い皮膚病の人は、それを信じたのです。
私たちもそのような信仰をもちたいと思います。「私の主よ、お心一つで私をきよめていただきます。私たちの家庭を助けることがおできになります。私の問題を解決していただけます。」と。

3、手を差し伸べられるイエス
3節にイエス様が手を差し伸べられた、と書かれています。イエス様の愛は、手を差し伸べる愛です。口先だけではありません。
その次に、「その人に触れ、」とあります。イエス様は、私たちの一番恥ずかしい部分に手を置きたいと願っておられます。その部分にこそ主は触れたいと願っておられます。
それからイエス様は語られました。新共同訳では「よろしい。きよくなれ。」ですが、新改訳では「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。
  イエス様は、私たちが健やかであることを願っておられます。それ以上に、私たちが罪から抜け出すことを願っておられます。これが神の御心です。イエス様は私たちを苦難の中に放り込んで楽しまれるようなお方ではありません。ラザロの死を御覧になった時にイエス様は涙を流された。それほど死を憎まれたのです。私たちはこの主のお心を信じましょう。
そして、主は「私の心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、重い皮膚病の人は、きよめられ、癒やされたのです。
今日、この重い皮膚病よりもさらに重い病気があります。それは罪という病気です。重い皮膚病は特定の人々にだけありますが、罪は私たち全ての人にあります。罪は私たちを無感覚にし、痛みも恥も感じなくします。自分がどれほどの罪人かも分からなくなります。イエス様の御前に出ればこの罪がいやされます。十字架の血潮の力と復活の力が私たちの罪を癒やしてくださいます。
「きよくなれ」と言われて皮膚病が癒やされた時、彼はどれほど嬉しかったことでしょう。この喜びは救いの喜びです。神に出会う喜びなのです。この人は、自分が癒やされた時、言葉にならない感激と飛び跳ねたくなるような思いがあふれたことでしょう。
そんな喜びのさなかにイエス様は、4節で「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」と言われました。
病が癒やされた彼は、一番始めに両親のところに行きたかったことでしょう。友達のところに行きたかったことでしょう。しかしイエス様は、祭司のところにまず行って見せなさい、と言われました。何故イエス様はそう言われたのでしょうか。ここに大切な御心があります。イエス様は恵みを与えましたが、律法を無視することはなさいませんでした。ある人は恵みを受けたならそれでいいではないか、と言うかもしれません。
しかし、イエス様は律法を犯したり、壊したり、変えたりはされませんでした。
「イエス様を信じて救われて恵みを受けたら、それでいいじゃないの。聖日礼拝を守ったり、十一献金をしたりすることがなぜ大事なのか。」という疑問があるかもしれません。イエス様は律法を完成するためにおいでになられました。重い皮膚病の人が癒やされた後、祭司に見せよと言われました。癒やされたという事実を確認してもらい、それから供え物を献げなさい、と言われます。恵みと癒やしを受けたら、供え物によって感謝を表す、これがイエス様が律法として尊重しておられることでした。
この人の人生は新しくなりました。きよい歩みとなりました。
私たちはどうでしょうか。信仰の告白をしているでしょうか。主に信頼しているでしょうか。主が持っておられる力を信じましょう。