2018年4月29日の説教要約 「十字架を見上げて」

2018年4月29日の説教要約
「十字架を見上げて」            大久保啓示牧師
<マルコによる福音書15章33節〜39節>


本日示された御言葉は、主イエスが十字架にかけられた場面の箇所である。そこから、主イエスの十字架はどういったものであるか、十字架を見上げるようなイメージを持って、3つのポイントで御言葉を見ていく。

1.主イエスの苦難を知る
 十字架の刑は、両手両足に釘を打ちこまれ、絶命するまで苦痛に耐えるという恐ろしいものであった。主イエスは十字架に前日、夜を徹しての裁判にかけられ、鞭打たれ、心身共に限界に達していたと思われる。そのような状況で、重い十字架(または十字架の横棒)を刑場まで担がされ、苦痛を和らげるための没薬を混ぜた酸いぶどう酒をお飲みにならず、十字架にかけられた。その御姿を見た、主イエスを慕う人びとの心もさぞ苦しかっただろう。
 キリスト者は、ここでもう一つのことを心に浮かべる。それは、主イエスが十字架にかけられたのは、自分たちの罪のためだということである。だからこそ、主イエスのこの十字架の出来事を読むとき、心が苦しくなる。このことを心に留めておきたい。


2.主イエスの生き様を知る
 十字架にかけられた主イエスの最後を見て、「本当に、この人は神だった」と言った者がいた。それは、ローマの百人隊長だった。彼がそう言った理由は、主イエスの、聴衆や共に十字架にかけられた罪人への配慮を見てのことだろう(ルカによる福音書23章より)。
 現在は天に召されたある信徒の方は、重い病にかかりながらも、他人へ愛情を注ぐことを忘れなかった。そうしたキリスト者としての姿勢は、心打たれるものがある。
 人々にキリスト者として言葉でも行いでも証できる者となれるよう、まずは私たち自身が主イエスの愛を深く知る必要がある。そして、御霊の導きによって、主イエスのように人生を生きれる者となりたい。


3.天を見上げる
 主イエスの十字架によって、私たちの罪は赦され、父なる神と再び交わることができるようになった。それは、父なる神の一方的な恵みと憐れみによる。だからこそ、十字架は私たちにとって喜びとなる。
 そのような父なる神の恵みと憐れみに気づくには、御言葉に耳を傾けることである。日々聖書に親しみ、祈り、父なる神の私たちに示して下った愛を心に留めることが大切だと思われる。
 主イエスの十字架の意味を知り、そして私たちに向けられた父なる神の大きな愛を知れば知るほど、私たちの心は満たされていく。主イエスの十字架を見上げ、さらに天を見上げ、父なる神の愛に満たされて歩む次の1週間でありたい。