2018年3月4日の説教要約 「ゲツセマネの祈り」

○3月4日の説教要約
『ゲツセマネの祈り』                    中道由子牧師
《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。》
                       (マタイによる福音書26章36〜46節)


ゲツセマネの園は、オリーブ山にある園で山の西側斜面はケデロンの谷と呼ばれる崖になっています。 
向こう側にはエルサレムの都があり、オリーブ山の頂から都全体を展望することが出来ます。
園と言っても美しい庭園があるわけではありません。オリーブ山の一画にあり、オリーブの木がたくさんある所であったようです。オリーブの実がたくさん取れると、そのオリーブの木から油を絞るために、人々が集まってきて働いたのです。それで、「ゲツセマネ」は、ヘブル語の「搾油機」(ガットウ)と「オリーブ油」(シュマニム)の意味があるのです。その季節になると、日中はオリーブの実から油を絞るために人々が集まり、汗を流して賑やかな場所であったと思います。
 しかし、夜になると人々はいません。昼間の働きを考えると、本当に静かな場所です。人々が汗を流して油を絞ったその場所で、イエス様は汗が滴るほど激しい祈りをなさったのです。

1、一緒に目を覚ましていなさい
 ここを読むとすぐに疑問が湧いてきます。イエス様はどうして弟子たちを連れて行ったのだろうか?主は弟子たちがご自分を裏切ることを知っておられました。そして、ここでも主が必死で祈っておられる時も眠ってばかりです。
36節に「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」と言われました。この「座っていなさい」を「屈んでいなさい」(かがむ)と訳した人もいます。屈む、というのは、ぺたんと腰をおろしているのではなくて、いつでも立てるように構える姿勢です。何のためでしょうか?これは見張りの姿勢なのです。
ここで弟子たちはただ座っていたらよかったのではありませんでした。神経を研ぎ澄まし、中腰に屈みこんで、イエス様が祈っている間、目を覚ましていなさい、と言われたのです。主は父なる神と大切な祈りの時を持ちます。途中で誰かに邪魔されるようなことがないように見張りの役をするのは、ただ座っているように見えても大切な役目でした。
38節には「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」とあります。主と一緒に目を覚まして、その祈りに心を合わせる。これは、単なる見張りではなく、霊的な意味が含まれています。
映画「パッション」では、イエスと弟子しかいないはずの場所に影のようにサタンが現れ、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(マタイ4;3)とささやきかけます。その影の足元から一匹の蛇が現れて、イエスのからだにまとわりついたように、サタンもイエスの心にまとわりつこうとしていると表現しています。
41節で主は「誘惑に陥らないように」と言われました。サタンは主に攻撃を仕掛け、また弟子達にも主に躓き、離れるという誘惑の罠が待っていました。
 サタンはイエス様が十字架にかからないように何度も誘惑してきました。イエス様が十字架にかかって全人類の贖いを成し遂げてしまったら、サタンは敗北するからです。
サタンはずっとイエス様の十字架の計画の邪魔をしてきました。
① サタンはまず、イエス様が誕生した時、ヘロデ王の計画を通して赤子であるイエス様を亡き者にしようとしました。
② 次にイエス様が洗礼を受けて伝道を開始する直前に、荒野で3回にわたり、サタンはイエスを誘惑しました。
③ さらに十字架につく予告をした時に、弟子であるペテロが、「とんでもない、そんなことがあるはずがありません」と主をいさめた時、イエス様はペテロに向かって「下がれ。サタン。おまえは私を躓かせる者だ。お前は神のことを思わないで人のことを思っている。」と叱りつけました。十字架を否定するペテロの言葉の背後にサタンの働きを見抜きました。          
創世記3章15節には、「彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとにかみつく。」とあります。
どんなに悪が勝っているように見えても、主は十字架の上で完全なる勝利を取られるのです。サタンの働きに対して私たちは、主と共にいて目を覚ましていなければ、なりません。
サタンの働きは、「盗み、殺し、滅ぼす」ことです。
イスカリオテのユダは、銀30枚でイエス様を祭司長たちに売りました。ユダの心はサタンに翻弄されて、自らの命を絶ってしまいます。ペテロもまた、主を裏切りました。いざとなった時イエス様を「知らない」と3度も言ってしまいます。ペテロの弱みは彼の過剰な自信でした。そのプライドの中にサタンはつけこんできたのです。
 サタンはすべての人の弱さを知っています。しかし、主は、「あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈って」おられることを忘れないで下さい。イエス様と共に霊的な目を覚ましていることです。

2,みこころを祈る
 多くのクリスチャンも、大切なことを決めるときは祈る習慣を持っています。「祈って決める」と言います。祈るとは、物事を神に信頼することで、神のお考えを知ることです。祈ってから自分の考え通りに決断することもあれば、自分の考えと反対の行動にでることもあります。祈りの中で自分の考えを取り下げることもあります。自分の考えよりも神の考えの方がまさっていると信じるからです。
 37節に主は「悲しみ悶え始め」、そして、38節で「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と言われたのです。口語訳では「苦しみ悶え」となっています。
ルカによる福音書の並行記事では、主はいよいよ切に祈られた、汗が血の滴るように地面に落ちた、とあります。主イエスはオリーブ油を搾る搾油機のあるゲツセマネの園で、オリーブ油を搾り出すかのように、魂を絞り出し、汗が血の滴るようにして祈りを捧げられました。
 専門書によると、オリーブ油を搾るには4段階あるそうです。一滴も無駄にしないでオリーブ油を搾るのです。
第一段階は、神殿に捧げる油です。これは最も軽い石で搾ります。メノラーと言われる神殿を照らす燭台に使います。また王や祭司の油注ぎに使います。
第二段階は、その搾りかすにさらに重い石を使って、再び油を搾り出します。これは家庭で使う食用の油です。
第三段階は、家庭の明かりを灯すために使い、女性の化粧品や薬品としても使いました。
第四段階は、さすがにもう一滴も絞れないと思える残りかすをさらに重い石を使って搾ると、再び油が出てくるそうです。それに灰汁を混ぜて石鹸を作ります。そしてその搾りかすも捨てられずに、燃料として燃やされたのです。
 重い石が次々と載せられてオリーブが絞られるように、主イエスの上に、全人類の罪の重荷がイエスを押しつぶすようにのしかかったのです。絞られたオリーブが絞られるように、主イエスの体から、血の滴りのように汗が地面に落ちたのです。イエス様は最後の一滴も残さず絞られ切られるオリーブと同じように、ご自身のすべてを搾りきるように祈られたのです。私たちの罪は重く、イエス様を押しつぶしてしまう程だったのです。
41節に、「心は燃えていても、肉体は弱い。」とあります。イエス様は、人間の体でこの世に来られたため、人間の弱さと恐れをすべて経験されました。イエスは、十字架の道を考えて、死ぬほど苦しまれたのです。この苦しみは、単に死を目前とした人間が持つ恐れや恐怖を超えたものです。人類のすべての罪を負わなければならない霊的な重圧と、その罪に対する裁きの罪の重さは、人間の想像を超えるものだったからです。
それ故に、39節で主は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と言われました。「できることなら」とは、全人類の罪の贖いが十字架なしでできるなら、という意味ではないでしょうか。もしほかの方法があるなら、「他の方法に変えてほしかった」、しかし主イエスは十字架を選ばれます。
ここに「神のみこころ」が出てきます。神のみこころは、「主イエスの願い」とは異なることを、絞り出すような祈りの中で主は悟ったのです。
マタイ福音書6章の「主の祈り」の中に、「みこころが天に行われるごとく、地に行われように」と祈ります。天におけるみこころは、主イエスが十字架にかかり全人類の贖いを成すことでした。このみこころがイエス・キリストによって地に行われなければならないのです。
私たちは、窮地に立った時みこころを知りたいと思います。みこころは困難な方にある気がします。主イエスは言われました、「誰でもわたしに連いてきたい者は、自分を捨て自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」。
みこころは、楽なほうにない、でも私たちには覚悟がなく、なんとか自分の願いがとおることをみこころとしたいところがあります。
 34年前に私が腎臓の病気をした時、第一子の子どもが授かっていました。私の願いは、神様にこの子を助けてもらいたかった。でも、それはなりませんでした。それは、神さまの御手に委ねなければなりませんでした。その後、神様は私の病を奇跡的に癒やし、私に6人の子どもを授けて下さいました。私は、最初の子どものことを忘れません。でも、これが神のみこころであり、最善であることは今よく分かっています。皆さんの人生の中で神の御心を歩むとき、痛みを通るかもかもしれない、が静かに確かな神の御手の業を見ることがあるのではないでしょうか。

3、決断の時
 イエス様にとってゲツセマネは、決断の場でした。十字架を選ぶか、回避するかの最終決定の場所が、このケツセマネの園だったのです。ポイント・オブ・ノーリターン(後戻り不可能な地点)とはこのような状況でした。この時点でも、エルサレムに背を向けて故郷のガリラヤに帰ることは可能でした。迫害も苦しみも十字架も避けることができたのです。このゲツセマネの祈りまでは、イエス様は「まだ私の時は来ていない」と、坂を登っていく列車が力をつけてゆっくり登っていくようでした。しかし、ここからは列車が下り坂を進んでいくように主は十字架に向かってまっしぐらに進んで行かれます。そして、沈黙をされます。決断の時は祈りの時でした。主は「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。」と言われたのです。イエス様のお顔はもう悲しげでも、苦しそうでもありません。神様の御心を選びとった、決然としたお顔であったはずです。
私たちも主のみこころの道を選び取るとき、迷いの雲が消え去ります。そして、神様はみこころを行おうとする者たちの心に平安もくださるのです。