2021年12月26日の説経要約 「試練か誘惑か」

2021年12月26日の説経要約

                          「試練か誘惑か」   照内幸代牧師

 

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」

                                 ≪ヤコブの手紙 1章17節≫

 

読み始めて早々に、私たちはちょっと信じられないような御言葉に出会います。2節「私の兄弟たち、様々な試練に遭うときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」とあることです。ヤコブは文字通り、試練に遭ってるときにそれを喜びなさいということを言いたいのではなく、試練というのは一つのチャンスのような者であって、それを耐え偲ぶなら自分自身に成長があるということを言いたいのではないでしょうか。アブラハムという人を例にあげたいと思います。アブラハムは神にお従いする神の友で、たくさんの財産を持っていましたが跡取りとなる人がいませんでした。神様は、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。ところが、そのような約束をくださった神様は、それから何年経っても子どもをお与えになりません。与えられたのはなんとアブラハムが99歳のときでした。神様の約束から24年もの時間が流れています。この24年の間に、家族関係に大きな困難がありました。でも神様は沈黙していらっしゃる。約束の子はまだ与えられない。そんななんとももどかしい時間の経過が流れています。私たち自身のことについて考えてみても、同じような経験はあるのではないでしょうか。与えられたいと願ったものが、願った時に与えられなかった。神様の不思議な沈黙とも言える時間です。主からの試練は、このような不思議な時間に似ています。一つ言えるのは、その時間を通して、私たちは確かに祈り、悩み、話し合い、最善を尽くそうと努力したということではないでしょうか。主の試練とは、私たちが祈るため、また愛をもって仕え合うための時間の流れです。

ですからヤコブがここで強調して言っていることは、試練と誘惑は違うということです。誘惑と言ってまっさきに思いうかべるのは、創世記に出て来るアダムとエバではないでしょうか。天の父なる神様はエデンの園を造られ、その中央に食べてはならない善悪を知る木を植えられました。このことは一つ、神様からのチャレンジ、すなわち試練であったと思います。神様はその善悪を知る木と命の木を園の中央に飢えられたとき、そこに高いフェンスを設けなかったからです。この試練の意味することは、神様の信頼です。食べてはならないと言ってある実が人によって食べられない間、神様と人間の間には信頼関係があったのです。ところがそこに、神様と人間との関係を打ち壊そうとする悪がやってきます。蛇の誘惑です。エバも、そして夫のアダムも園の木の実を食べてしまいます。このとき確かに神と人との間には大きな断絶が生まれたのです。神様からの試練というのは、私たちに対する信頼の結果であり、決して私たちを傷付けたり、損なわせたり、何かを失わせる目的のものではないのです。しかしサタンからの誘惑は、私たちと神様の関係を壊し、私たちに損害を与えるものであることが分かります。

ですからヤコブは、全て良いものは神から来るのであり、悪いものは神から来ないと言っています。その何よりもの証拠が、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかけられ、蘇ってくださったことではないでしょうか。パウロもローマ書8:32でこのように書いています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」天の父なる神様は、私たちに御子をくださったお方です。今から二千年ちょっと前に、主イエス様をこの地上に人間として生まれさせて下さったお方です。そのお方が、私たちにとって悪いものをくださるはずはないのです。