2022年1月23日の説経要約 「アーメンと言って信じる」

2022年1月23日の説経要約

           「アーメンと言って信じる」  中道善次牧師

≪アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。≫

                                                     (創世記15章1~6節)

 

今日は、私たちが祈りの終わりに言うアーメンについて学びたいのです。

アーメンは、キリスト教を指す代名詞ともなっております。

ヘブライ語であります。アーメンの元の言葉、それはエムーナというヘブライ語であります。

それが最初に出てくる箇所が、創世記15:6です。アブラハムは、神を信じたというところです。

その箇所のヘブライ語は、ヘ・エミンであります。

それを、ある学者は、「アブラムは、主にアーメンと言った」と訳すのです。

今日は、アーメンと言う言葉を取り上げて学びたいのです。アーメンは「信じます」「その通りです」「真実です」という意味です。旧約聖書だけでなく、新約聖書も取り上げながら学びたいと思います。

 

 

1、アーメンと言ったアブラハム

創世記15:1~5で、子どもが与えられないことで悩んだアブラハムを説得するかのように神は満天の星空をアブラハムに見せるのです。

そのような神様の熱い思い、私を信じてほしいという説得に対してアブラハムが答えるのです。

それが、創 15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

信仰の父であるアブラハムのスタートです。ここを読むと、アブラハムの信仰は最初から立派だと感じます。しかし実際のところ、不安と恐れでいっぱいのアブラハムに対して、神様が説得された。そしてようやく信じられるようになった。神の説得に対して、アブラハムは「アーメン」と答えたにすぎないのです。

私の友人の牧師が、創世記から連続講解説教をしておりました。その時、15:6から「アーメンと言った」とメッセージされたことを私は深く心に留めていたのです。

友人は、聖書注解者たちのコメント(信じるとは、アーメンと宣言する、ある言葉にアーメンという)から、アブラムはアーメンと言ったという説教を語ったと言っておりました。

アブラハムが信じた「エミン」は、エムーナというヘブライ語です。エムーナという言葉を調べてゆくと、「支えられる」という意味があるのです。

ヘブライの宝もの」には次のように書かれています。

その中で興味深い訳があります。

出エジプト17:12 「その手は、日の沈むまで、しっかりと(エムーナ)上げられていた。

イザヤ33:6 主はあなたの時を堅く支えられる(エムーナト)。

エムーナを持つ人とは「しっかりと堅く立つ」安定性を持つ人であります。

私は、出エジプト17章で、モーセが二人の真実な友人アロンとフルによって、両手を堅く支えられた姿をイメージしました。

支える人がいて、私たちは堅くされる。それが信じることであります。

神様の真実に支えられて、アーメンと言う言葉が出てくる。それが「信じる」という行為です。

私は、アーメンという言葉を出す祝福を、実際の牧会の体験でも教えていただきました。

ある方のご家族を導いた時のことです。その方は、重い病状で、酸素吸入をしておられました。

私がこの方を訪ね、耳元で、代理の祈りをしますと申し上げ、祈りました。お返事を期待してのことではありませんでした。しかし私が祈り終わったとき、その方はひとこと酸素マスク越しに、声を絞り出すように「アーメン」とおっしゃったのです。

信仰とは「ある言葉にアーメンという」ことだ。まさにそうでした。

神様に堅く支えられて、私たちは信じているのです。

 

 

2、信じることと神の真実

私たちが使っております新共同訳のローマ3:22は、以下のような翻訳です。

ローマ 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

ところが、聖書協会共同訳では、ローマ3:22を次のように訳しています。

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じるものすべてに現されたのです。

イエス・キリストの真実」の別訳として、「イエス・キリストへの信仰」とあります。

新改訳2017は、「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と訳し、別訳として:イエス・キリストの真実によって、となっております。

新約聖書が書かれたギリシャ語は、ピスティスと言う言葉であります。

これは真実とも信仰とも訳すことが出来ます。英語で言うなら、faithとfaithfulnessであります

聖書協会共同訳では、「イエスの真実によって」と訳しました。

言語学の問題というより、私たちが信仰をどのように理解するかが問われるところです。

信じるということを、私たちに主体があると理解するか、それとも、イエスの真実によって支えられ、信じることが出来ると理解するかであります。

私たちは神に真実によって支えられている。神の真実が先にあり、それに答えるように信仰があるのです。

 

 

3、アーメンと言ったパウロ

次にパウロがアーメンと言っている箇所をお読みします。

コリントの信徒への手紙二 1章17~20節(引用省略)。

この箇所はわかりにくく、パウロが独り言を言っているような箇所です。

ここでパウロは、コリントの人々から批判されていたのです。

パウロは、コリントを再び訪問したいと1コリント16:5~6で言っております。

パウロはコリントで滞在し、冬を越すことになるだろう。そのように旅の計画を言っているのです。

ところが、彼はコリント訪問を取りやめたのです。

そのことでパウロは、ころころ計画を変えるいい加減なやつだとコリントの人々から非難をされたのです。

それに対してパウロは弁明しているのです。自分が計画を変更したことは、軽はずみなことだったでしょうかと言うのです(17節)。

そのあとの言葉を簡単にいうなら、パウロは、自分の考えで訪問をとりやめたのではない。神が、NOと言ったのだ。だからそれに対して、私は「ハイそうします」と言ったのだというのです。

パウロの中には、いつも神様のおっしゃることに対して「はい」があったのです。

急な変更と言われて、人から批判されることであっても、神様がそうしなさいといわれたら私はいつでも「はい」と言うのです。神のおっしゃることに「アーメン」と言うのです。

神に対して、アーメンと言って生きるパウロの姿がここに描かれているのです。

そして、それは私たちの祈りでもあるべきです。

主よ、あなたのおっしゃることにいつもアーメンと言って従えるように。

どんなときにも「アーメン」と言って応答したい。生きてゆきたい。従ってゆきたい。

それは、私を堅く支えてくださる方への信頼でもあります。