2019年10月6日の説教要約
「ただこの一事に」 中道由子牧師
≪兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞与を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。≫
フィリピの信徒への手紙3章12~21節
ここで、パウロが描き出しているキリスト者の姿は、競技場で汗を流しながら目標に向かって懸命に走っている姿であります。
パウロが生きていたこの時代はスポーツが盛んであったようです。当時、ギリシャのペロポネソス半島のオリンピアでは、4年に一回、競技大会が開かれていました。コリント教会のあったコリントは、オリンピアからは120、130キロメートル東方にあって、ここでも競技が隔年に行われていました。
だから、パウロはコリントの信徒への手紙一9章25節で
「だから、私としてはやみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」
と言っています。
そのようなスポーツ選手を頭に思い浮かべながら、パウロはフィリピのクリスチャンたちにこの手紙を書いているのではないでしょうか。今朝、私たちも、競技者の姿をキリスト者にたとえて考えてみたいと思います。
1、後ろのものを忘れる
まずスタートラインです。私たちのスタートラインは、自分の努力や善い行いや修行によるものはありません。ただイエス・キリストを信じる信仰によるものです。
洗礼を受けるというのはこのスタートラインに立つことでもあります。
洗礼を受けたらすべてオッケーではなくて、これから始まりです。でも決して一人で走るわけではなく、イエス・キリストと一緒に走ります。
ただこの競技に必要な大切なことは、後ろを振り向かないことです。
旧約聖書に出エジプトで、イスラエルの民が荒野の生活の中で、エジプトにいた頃はよかったと懐かしがっています。過去の私たちを魅了する物、それらを思い出すと心が弱くなってしまいます。
その他にも、過去には私たちが忘れなければならないものもあると思うのです。
たとえば、パウロの場合、自分がキリストに出会う前に「誇りとしてきたもの」です。自分の生まれ、出身、受けた教育など、自分が誇りとしてきたものです。そういうものはもう忘れたのです。そういうものを後ろに忘れて自分は前を向いていると語っている。
忘れるべきもう一つのことは、おそらく罪に関わることだろうと思います。
パウロにとって、一番大きな罪は教会を迫害したことです。これはずっとパウロの心に残っていたことでした。ユダヤ教の律法に熱心さのあまりに、教会を迫害することになってしまった自分の罪と言うものを、忘れていないのです。それは、大切なことです。
まるで過去にしてしまったこと、そういうことが、何もなかったかのように振舞うことはできないと思います。私たちはどうでしょうか?イエス様を信じたから、昔のことはきれいさっぱり忘れたかと言うと、自分の罪の姿は忘れることはないでしょう。それは当たり前のことです。だからこそ、イエス様の救いを感謝できるし、その重みを感じます。
しかし、それをいつまでも引きずって、それに捕らわれていることは必要ないことです。パウロはそのようなことがありませんでした。しかし、パウロと敵対している者がいて、何かと言うとそのことを持ち出して、あのパウロと言う男は、今は熱心な伝道者だけれども、昔は教会を迫害していたものだということを、ことさらに言い立てる者がいたらしいのです。しかし、そういうことに対してパウロの姿勢ははっきりしているのです。
そのような自分の罪を忘れることはないけれども、それに捕らわれることもしない。
ヘブライ人への手紙12章1節「すべての重荷や、絡みつく罪をかなぐり棄てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」
どのようなものが、私たちに絡みついて、私たちの妨げになっているのでしょうか?
人を赦せない思い、人に傷つけられたこと、あるいは過去に失敗したこと、思い出す度に心が引き戻されて、キリストに向かなくなってしまう。そういうものを、かなぐり捨てよ、というのです。サタンはこのようなものを持ってきて私たちを貶(おとし)めようとします。私たちは「イエス・キリストによってすでに赦されている。」と宣言することができます。これが神様の約束です。
ヘブライ人への手紙8章12節「わたしは彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
後ろに投げ捨てるべきものを投げ捨てて、前を見るのです。
キリストが成して下さった十字架と復活以上に確かなものはありません。
2、前のものに向って進む
ストレッチをしているイメージを持ってください。後ろに重心を置くと尻もちをついて転びやすいです。ですから前のものに全身を向ける、体を前に伸ばすのです。
13節でパウロは「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。」と言っていますが、実はこの「わたし自身は」という言葉は非常に強い言い方なのです。
ギリシャ語の動詞は主語を含んでいるそうです。ですから、わたし、とか、あなた、という主語は必要ないそうです。でも、ここに「私自身は」という主語が原語には出ている。
「エゴ―」という言葉です。エゴイズムという言葉がありますが、その元になっている言葉です。その言葉が入っている。「このわたし」という意味になるでしょうか。
他の人はどうか知らないけれど、この私は、既に捕えたとは思っていない、と言っているのです。
自分はキリストを捕えた、真理を自分のものにしている、完全な者になっている、と主張している人々を相手に、パウロは自分はキリストを愛し、あなたがたに福音を宣べ伝えたけれど、決して自分は完全ではないし、求め続けている。キリストに捕えられ、キリストに少しでも近づきたい、もっと知りたいと求め続けている。
ここでの、「捕える」は英語で言うならreach out、体を伸ばして届こうとしている姿です。
キリストを目指して走る時に、パウロは16節で
「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」と言っています。
自分がどこにいようと、そこから出発すればいいのです。だから、他の人と自分を較べる必要もないのです。今いる場所は人によって違うのです。でもそれがどこであろうと、そこから出発すればいい、そこから一歩を踏み出せばいい。他の人よりも、歩みが遅いと思っても、気にする必要はありません。
前に向かって歩いていれば、私たちはキリストに近づいているのですから。
その最終目的地には賞与、プライスがあるのです。
3、私たちの国籍は天にある
皆さんの国籍は、今どこの国でしょう?日本ですね。
我が家の長女はアメリカで生まれました。生後7カ月で日本に帰ってきてから一度もアメリカに行ったことがありません。それでも、アメリカの国籍を持つことができます。
そこで生まれ育たないと国籍を持てないです。
天の国籍もイエスを主と告白して霊的に生まれ変わった人に与えられます。
私が最近手にした本で、榎本照子先生の「愛し、愛される中で」という手記があります。榎本照子先生は、ちいろば牧師で有名な榎本保郎先生の次女でいらっしゃいます。関西学院大学神学部の教授を勤めながら、社会的には難しい立場にいる、エイズ患者やLGBTを抱えた人たちに積極的に交流の場を広げた方であります。そして、昨年4月に長く抱えていた病の悪化のため、多くの友人に囲まれて天に旅立っていかれました。その手記の中にお姉様のるつこさんが妹を思って書いた文章があります。
「人生には春もあるし、暑い夏もあるし、秋もあるし、冬もある。しかしどの季節も神様が造られ、そしてその中に神様はいらっしゃる。私たちの人生の中も、どんな時にも神様がいてくださるのである。その神様に、必死に信頼していきたいものである。
神様は、てる子の歩みの中で、時にかなった人との出会いを与えて、てる子の使命をはっきり示されました。それを知ったてる子は父と同じく自分の信じたものに命を懸けて、もがきながら進んでいったように思います。あれほど拒絶していた父の生き様とそっくだな、と思わずにはいられません。何がてる子を突き動かしていたのでしょうか。
それは紛れもなく神様の愛であり、み言葉の力であり、神様への祈りと多くの方々からいただいた愛であったと確信しています。」
天の国籍をいただいた私たちが、私たちらしく、この信仰のレースを走り抜いて行こうではありませんか。