2022年2月20日の説教要約
「神の顔を見る」 中道善次牧師
≪創世記 32章23~31節≫
今日、取り上げますヘブライ語はペニーであります。創世記32章のペヌエルとは、「神の顔」であります。ペニーが「顔」、エルが「神」です。
またペヌエルは、地名でもあります。ヤボク川の渡し場所であります。ガリラヤ湖から死海に流れるヨルダン川の中間地点から東に流れるヤボク川があります。
またペヌエルは、ホーリネスを掲げる教派の教会では、聖めの経験を指す代名詞ともなっております
修養会や聖会で、神様の前に出て、神さまのお顔を見るような経験をする。ヤコブがここで神様のお顔を見る経験をしました。それは人を押しのけるヤコブの本性が示され、彼の自我が砕かれ、杖をつかなければ歩くことができなくなった。そのように、自分の力ではなく、一歩一歩神様により頼むような歩みをするようになる。それがペヌエルの経験であります。
今日は、顔、それは「神様のお顔」のことでありますが、今日は、ペニーという言葉を取り上げて、三つことを学びたいと思います。
1、神と人の前に顔を上げる
ペヌエルが出てくるヘブライ語の聖書を紹介します。
創 32:31 ヤコブは、「私は顔と顔をあわせて神を見たが、命は救われた」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。
ヘブライ語では、顔という表現をパニーム、そして、エルという神の言葉を加えて「ペヌエール」となります。
神の顔を見るというヤコブの経験は、人の前に顔を上げるという事と深く関係があります。
人の前に顔を上げる。それはある人に顔向けが出来なかったのに、顔を上げてもらう。赦し、和解です。
ヤコブは双子の兄をだまして、長男の特権と親からの祝福を奪い取りました。兄が激怒したので、ヤコブは怒りを避けるために逃げました。それ以来、ヤコブは兄エサウに顔向けが出来なくなったのです。そしてそれが20年も続きました。
人に顔向けが出来ない。その原点は、人間の罪にあります。アダムとエバが、神の命令に背き禁断の木の実を食べました。そのあとアダムとエバが取った態度は、神の顔を避けたことです。
創 3:8 ・・・そこで、人とその妻は、神である主の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
人は罪を犯すと、神様に対して顔向けが出来ない。そう思って、神の顔を避けてしまったのです。
同じ事が人に対しても言えるのです。
そこでヤコブは、兄の顔を再び見ることができるように努力をするのです。
創 32:21 『あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります。』」ヤコブは贈り物を先に行かせて、エサウ(原文:彼の顔)をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく赦してくれる(原文:私の顔を受け入れてくれる)と考えたのである。
ヤコブは、贈り物を送る作戦を立てました。しかしそれだけでは安心できなかったのです。
ヤボクの渡し場で悶々としていると、一人の人が近づいてきたのです。ヤコブは、敵だと思って、その御方と一晩中格闘しました。これは「祈り」です。その結果、ヤコブはペヌーエール、神の顔を見たのです。
兄の顔を見る前に、神と顔と顔を合わせて見たのです。そのことが大切だったのです。
そして兄エサウの顔を見ることは、創世記32:21にあるように「赦し」を意味しました。
創 32:21 『あなたの僕ヤコブも私たちの後から参ります。』」ヤコブは贈り物を先に行かせて、エサウをなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく赦してくれるだろうと考えたのである。
兄の顔をまともに見ることが出来なかったヤコブ。兄から赦してもらう前に、ヤコブは、神の顔を見て、取り扱われる必要があったのです。まず神に赦してもらい、祝福してもらう必要があったのです。
人間関係は、神との関係の鏡のようだと言われますが、まさにそのことをこの記事は現しています。
毎日、神さまのお顔を見ることは大切であります。そこで大切な人間関係の基本が出来るのです。
そのようにするなら、私たちが接する難しい人に対しても、笑顔で接することができるのです。
2、御顔の光を求める
聖書の中には、御顔の光を求める、御顔の光が照らされるという言葉が、しばしば出てきます。
詩篇67:2には、「神が私たちを憐れみ、祝福し、その顔を私たちに輝かせてくださいますように」とあります。
ここには、神様のお顔=神様の祝福と並列に表記されているのです。
同じ事が、民数記6章に出てくる大祭司アロンの祝福の祈りにも見られます。
民 6:24 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
民 6:25 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
民 6:26 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜わるように。
詩編67:2と同じように、アロンの祝福の祈りにも、御顔の光という言葉と神様の祝福という言葉が並行して述べられている。御顔の光と祝福は交換可能な言葉、同じ意味を持つ言葉として使われているのです。
「御顔の光を照らす」という表現は、簡単に言うと、神様が私たちに微笑みかけて下さることです。神様の笑顔が私たちに向けられている事は、神様から祝福されていることに他なりません。
それは私たちが誰かに笑顔を向けることと同じであります。
私たちは好意を持つ人に対して笑顔を向けます。祝福を笑顔で示すのです。
神様からの笑顔が、私に向けられるように。これが旧約聖書の人々の祈りでした。
それがはっきりと現されているのが、旧約聖書の犠牲でありました。
旧約聖書の犠牲は、肉と小麦です。ステーキの香りです。クッキーやパンが焼ける香りです。
神が献げ物の香をかいで、良いお気持ちになられる。お心が和み、笑顔を人間に向けてくださる。それこそ神様からいただく祝福でありました。
神の民は、そのようにして、神様からの神の好意的な眼差し、ほほえみを感じ取ろうとしたのです。
それが御顔の光を照らしてくださいという祈りであり、願いでありました。
私たちも、日々の祈りの中で、神様のみ顔を求めたいのです。
3、神の顔を前に置いて歩む
出エジプトからの説教を。2020年の茅ヶ崎教会の礼拝で語りました。
出 20:3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
直訳は、私の顔の前に、他に何も神としてはならない
文語訳聖書では、「汝、わが「かお」の前にわれのほか何ものをも神とすべからず」となっております。
「私をおいてほかに」というのは、私の面(かお)の前でという言葉であります。
旧約学者の関根正雄先生は、「私の面前で、他の神々を持ってはならない」と訳されるのです。
そこには、信仰者がいつも神の御前に立っている。
神の顔の前にいることが、大切な前提となっております。
もう一カ所、神様のお顔が出てくる箇所を紹介します
出 33:14 すると主は言われた。「私自身がともに歩み、あなたに安息を与える。」
2021年の新年の茅ヶ崎教会の礼拝では、この箇所からメッセージを語りました。
出エジプト33章は、モーセが、イスラエルが金の子牛を拝んだ罪の赦しの祈りに引き続き、二度目の執り成しをしている箇所です。
金の子牛を拝んだイスラエルとは一緒に行かないと、神様はご機嫌ななめであり、そのようにおっしゃったのです。それをモーセはなだめるように、必死になって祈ったのです。
そしてその祈りは、顔と顔を合わせての祈りでした。
出 33:11 主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。
そしてついに、モーセの執り成しの祈りに心動かされて、神様がおっしゃったのです。
出エジ 33:14 「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」(協会共同訳)
新改訳2017では、私の臨在が共に行く。新改訳2017の注を見ますと、興味深いコメントが載っています。「臨在」という箇所のコメントです。直訳は「顔」とあるのです。私の顔が一緒に行く。
関根正雄先生は、「私の顔が共に行く」とストレートに訳されるのです。
その顔とは、もちろん、怒った顔ではありません。機嫌の悪い顔ではありません。
にこにこしている笑顔であります。顔と顔を合わせて祈ったモーセが、神様の笑顔を引き出したのです。
神様の笑顔が、私たちと共にある。それがペヌエルから聞き取るメッセージであります。