2021年5月2日の説経要約 「立ち上がらせてくださる神」

2021年5月2日の説経要約

       「立ち上がらせてくださる神」  中道由子牧師

 

ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」≫

                                                        (創世記28章10~22節)

 

1、孤独の中で神に会う

  ヤコブは、愛する家族から離れました。自分を支えてくれた人から離れて一人ぼっちになったのです。

家庭は私たちが成長するために必要なところです。

しかし、私たちが自立を経験するためには、「父と母を離れ」なければならないことがあります。

 家族は、家庭はその中にいる時は、当たり前の存在で、時には面倒だと思える時も若い時にはあるかもしれません。でも、離れてみて初めてそのありがたみがわかるというものです。

イサクとリベカの夫婦の関係が十分うまくいっていなかったかもしれないことが、兄弟を争いに導きました。

リベカの愛は夫のイサクよりも息子のヤコブに向けられていたと思われます。

そしてヤコブも母親の愛の中にアイデンティティーを見出そうとしていた。

いわゆる「子離れ」「親離れ」が出来ていなかったのです。

そのような状況では、本当の信仰に目覚めることも本当の自分の出会うこともできないでしょう。

神はご自身の計画の中で、ヤコブを愛する家族から引き離して孤独の中に追い込まれました。

 そして、彼は礼拝の場をも離れたのです。父イサクはベエル・シェバに祭壇を築き、主の聖名によって祈りました。そこで彼らは家族として礼拝をしていたでしょう。

そこから引き離されることは、ヤコブにとっては神からも引き離されることだと思えたでしょう。

人里離れた所で野宿するヤコブは、自分の孤独と無力さを痛感させられたことでしょう。

自分がより頼んでいたすべてのものを奪われた時、彼は初めて「自分自身」と直面したのです。

 エリーズ・ボールディング著「子どもが孤独でいる時間」の中で、生活のどこかに「孤独でいる時間」をもつことが必要だ、と書かれています。それは、自由であること、内へ向かうこと、自分自身を発見することのために欠かせない条件であり、人間には一人でいる時にしか起こらないある種の成長があるのだ、と。

子供たちは孤独な時に神と出会う、としたら、このコロナ禍の時期も含めて、孤独になる時は決して悪いことばかりではないことも真理であります。

 ヤコブはまっくらな野宿の中、石を枕にして、普通だったら眠れないような中、夢を見たのです。

 

2、天の門

 ヤコブが野宿した場所は荒野でした。誰一人ヤコブのことを知り、彼を心に留めてくれる人がいない所でした。 その夜、ヤコブは夢を見ました。その中で一つのはしごが立てられていました。

「神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」とありますから、階段の方がイメージしやすいと思います。上がり降りする大勢のみ使いを見たのです。

ベテルの真南の丘の斜面には階段状の石のうねがあった。

これを下から見上げると斜面が膨らんでいるため、頂が見えず、あたかも天に達しているように見えます。

ベテルと言う地形は、石灰の堆積層が風雨で削られて、岩山が階段状になっているのです。

ヤコブが野宿をし、体を横たえた場所から山の斜面を見ていた、その景色が、ヤコブが天につながる階段の夢を見た材料でした。それは「地に向けて建てられていました。そしてその頂は天に届いていた。

しかしこの「階段」は天からのもの、神の恵みによって天と地を結ぶものでありました。その階段の上を神の使いたちが上り下りしていた。これは、人間的には孤独になり、絶望していたヤコブに対する神の啓示でありました。一方的な神の恵みによる救いでありました。

ああここは天に通じている場所だと、ヤコブは思ったでしょう。

エス様は、ヨハネによる福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と言われました。

日本人はよく、「どの道からでも頂上に着く。天国もそうでしょう?あなたはキリスト教を信じて天国へ行くけれども、私は別の宗教を信じて天国へ行くの。どの道を通っても、同じ所に着くから。」と言います。

けれども、イエス様は「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と言われました。

 その道を、ヤコブは天の階段として夢の中で見せてもらった。

真っ暗な誰もいない、寂しいところでヤコブは神と出会ったのです。

実は、ヤコブの今までの人生も主は共にいてくださったのに、気づかなかったのです。

 ヤコブは、眠りから覚めて、「ああ、まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった。」

とひとりぼっちで歩んでいたと思っていたヤコブは初めて気づいたのです。

 皆さんの人生の一番苦しくつらかった時、そこに主はおられた、そのことを忘れないでいただきたい。

エス様を信じる前の時であったとしても、主は「知っているよ。わたしはそこにいた。」とおっしゃってくださいます。ヤコブにとって一番孤独であったその場所が、神の家であり、天の門となりました。

  ヤコブは両親と一緒に主を礼拝していた故郷ベエル・シェバを離れて一人になった時、本当に神様と個人的にこのベテルで出会いました。

主イエスに個人的に出会う時、私たちもこのベテルの経験を持つことができます。

 

3、条件付きの祈り

ヤコブは眠りから覚めて次の朝早く起きて、主を礼拝しました。そして、誓願を立てた、というのです。

彼はベテルで神と出会い、私たちが経験するところの救いの経験をしたのです。

しかし、決してまだ聖められた人ではありませんでした。

ヤコブの信仰はまだきわめて打算的であるように聞こえます。

28章20節からの祈りは、 「神様、共にいて守ってください。食べるパンと着物をください。そして無事にお父さんの家に戻らせてください。これらすべての条件が満たされたら、あなたを私の神様としてもいいです。その時は、この場所を神の家として、十分の一をささげます。」という祈りです。

 ヤコブはこれから行く叔父ラバンの家で20年間生活します。

叔父に仕えているようでいて、実は自分に仕えていました。

始めの14年間は愛する妻を得るため、残りの6年間は自分の財産を増やすためでした。

ついに叔父ラバンとの仲が不和となり、その地を去らざるを得なくなりました。

28章で「この場所を神の家として、十分の一をささげます。」という誓いをヤコブはいつ実行したのでしょうか?聖書を読む限り、35章だと思います

 28章から35章まで、少なくとも20年以上が経過しているのです。

すべてのことがうまくいって、この場所に帰ることができたら、あなたを神とします、あなたに十分の一をささげます、というヤコブの条件付きの祈りに対して、神様は20年間ずっと真実を尽くし続けられたのです。

私はお前の神だ、ということを必要を満たし、災いから守ることで、示し続けられたのです。

普通ならもっと早くそれに気づいて、神様に対して応答すべきでしょうが、ヤコブは20年後にそれをしたのです。恵みへの応答を後回ししてしまう、ヤコブ側の在り方は決してまねをすべきではありません。

しかし、渡辺善太という神学者は、「恩寵先行、信仰継続」を唱えました。

神がまず恵みを注いでくださり、食べるもの、着る物を与えて下さり、人生を守り導いてくださいます。そのような恵みを私たちは先に経験するのです。

まだ信じる前から、神様が祝福を与えてくださる。喜びや幸せを与えてくださる。そのような恩寵が先に来るのです。私たちは、後からついてゆくように「信じます」と応答することができるのです。