2022年2月27日の説教要約 「主はわたしの義」

2022年2月27日の説教要約

                              「主はわたしの義」 中道善次牧師  

                                               ≪エレミヤ 23章6節≫

 

ラリー・リー著「一時間でも祈っていることが出来ないのか」という本がありました。彼は、「主の祈り」の祈りの順序に基づき、祈りのガイドを紹介しております。

そのガイドによりますと、主をあがめます。御名を崇めさせたまえ。その祈りから始めるのです。

主を崇める第一の言葉が、ヘブライ語の「ヤハウエ・ツァディーキーヌー」です。その意味は、主はわたしの義です。ラリー・リーは、まず、主はわたしの義と宣言して、私たちを罪から救われた主を崇めるところから主を賛美する祈りを始めるように勧めるのです。

ヤハウエ・ツァディーキーヌ。この言葉はエレミヤ23:6から取られたものです。

エレ 23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。より正確に言うと、主は我々の義であります。

今日のヘブライ語は、ツァデーキーヌーの原型であるヘブライ語「ツァディーク」(義)であります。

ツァディークという聞き慣れないヘブライ語には違和感があるかもしれません。

しかしツァディークを名前に持つ人は聖書に多く登場します。ゼデクと発音することも多いのです。

まず創世記14章に出てくるメルキゼデクです。

次に、ゼデキヤという王様がいます。ゼデキヤのヤは、主です。最初のゼデキがツァディークです。

 

1、主は義の源

まず義と言うことについて考えたいのです。

新約聖書の言葉で有名なマタイ6:33があります。神の国と神の義を求める。どういうことでしょう。いつも正しくなければならない。そういうことでしょうか?それでは、肩に力が入るクリスチャンになります。

義とは、ギリシャ語ではディカイオスという言葉ですが、ギリシャ語からの説明によると、義は基準という意味であります。それは「ものさし」「定規」を意味する「真っ直ぐ」という基準であります。

加えて、義とは関係、人間関係と共に神との関係を表す言葉です。

あなたと私の関係が「義」である。それは真っ直ぐで良好な関係であります。

つまり、神の義を求めるとは、神様と良好な関係、真っ直ぐな関係を持つことであります。

それを旧約聖書で表現している言葉があります。

箴 11:5 誠実な人の正義は、その道をまっすぐにし

ここには、正義、ツァディーク。そして真っ直ぐは、タミームが使われております。

ミームというヘブライ語については、いずれ詳しくお話ししますが、愚直なほどに真っ直ぐ。あるいは一途であると理解できる言葉であります。

また神の義とは、ご自分一人だけが「義」なのではなく、自分と関わる人を義としてしまう義であります。

ヘブライ語には、受け身形容詞があると少し前の説教で申しました。

義もまた受け身形容詞であります。つまり、義の源が主である。あらゆる義は、主から出ている。

あの人は正しい、義とされた。それは神様から義を受けたということであります。

私が正しいのではない。私の中に「義」があるのではない。私たちの中には、罪や自己中心しかないのです。しかし主が私たちの義となられたのです。イエス様が十字架にかかり、身代わりとなって下さった。救い主イエス様を信じる者には、主が私たちの義となられるのです。

 

2、サドカイ人のルーツ

次に学びたいツァディークが名前に付いている人物は、ダビデに仕えた祭司の一人ツァドクであります。ヘブライ語では、ZDKの三つの子音で表記します。

義は「真っ直ぐ」であると語りましたが、ツァドクは、文字通り真っ直ぐな人でした。

ツァドクはどこまでもダビデ王様に対して忠実であった。真実であったのです。

それがよく現されているのが、ダビデが息子アブシャロムから、反逆されたときです。

このままではダビデ王に身の危険が及ぶということで、ダビデ一行は都エルサレムから逃げたのです。ダビデと一緒に、神の箱を担いでついて行こうとしたのが祭司ツァドクです。

ところが、ダビデはツァドクを制するのです。おまえは来るな。都に留まり、神の箱を守れ。そして都で起こっている事柄を、息子を通して私に知らせてくれ。そう言われたら、「ハイ」と従うのです。

やがて形勢が逆転しました。ダビデ軍が反撃して、アブシャロムは、戦で死んだのです。

ダビデ軍にとっては勝利です。その勝利の知らせをダビデにいち早く届けたい。そう思ったのが、ツァドクの息子アヒマアツでした。

ツァドクの息子アヒマアツもまた、愚直なほど真っ直ぐな心でダビデに仕えた人でした。

このように真実に、真っ直ぐな心でダビデに仕えた祭司ツァドクの子孫を神様は祝福されたのです。

それがエゼキエル書に書かれているのです。

エゼ 44:15 イスラエルの子らが私から迷い出たとき、私の聖所の務めを果たしたツァドクの子孫であるレビ人の祭司たちは、私に近づき、仕えることができる。・・・

エゼ 48:11 これはツァドクの子孫である聖別された祭司たちのものである。イスラエルの子らが迷ったとき、彼らが私のつとめを果たし、レビ人が迷ったようには迷わなかった。

私は、ツァドクの子孫が祝福されるのは、世の終わりのことであるのかと思っておりました。

しかし、そうではないのです。

祝福を受けるツァドクの子孫は、代々、大祭司と祭司の職を受け継いでいったのです。

そのグループが、イエス様の時代のサドカイ人、サドカイ派の人々でありました。

サドカイとツァディーク、ZDKが同じであります。

しかしこの祝福ある立場、大祭司としてのつとめを受け継いだ子孫が、いつの間にか変質してしまった。

新約聖書に出てくるサドカイ人の記事を見ると、がっかりすることばかりです。

サドカイ派は、ユダヤ教のグループを構成する人数としては多くなかったのですが、ツァドクの子孫です。サドカイ派が、ユダヤ教の宗教を支配していたのです。権力を持っていたのです。サドカイ派からユダヤを支配する大祭司が出たのです。

エス在世当時の大祭司は、世的な権力を握る人でした。

エスを十字架につける判決を最終的にしたのは大祭司でした。マルコ14:53~63参照。

「変質する」という言葉があります。最初は良かったのに。熱心だったのに。でもいつの間にか、歪んでしまった。変わってしまった。それはツァドクの子孫、サドカイ人でした。

サドカイ人には高ぶりが入ってきたのです。そして、真っ直ぐな心を歪めてしまったのです。私たちは、変わらない心で、真っ直ぐに主に仕えたいのです。

 

 

3、正しい人となったザアカイ

ザアカイはツァディークから出ていると思い込んでいました。

何故ならザアカイの名前の意味は、正しい人と言われていたからです。

ところが違いました。ザアカイの基になったヘブライ語は、ザキーという言葉で、その意味は、ピュアー、意味は道徳的に清いのです。ザアカイは、正しい人、純粋な人という意味であります。

そしてザアカイの基になったヘブライ語のザキーは、ザカリアの短縮形だというのです。

ザカリアは、主に覚えられる人です。「覚える」と「正しい」は結びつかない。そう思っていました。

しかし洗礼者ヨハネの父ザカリア、また、ヨアシュ王に殺された祭司ゼカルヤ、いずれも真っ直ぐな人でした。神に覚えられた人々は、純粋な、正しい人だったのです。

しかしザアカイは、名前とは逆の人でした。人からお金をだまし取る収税人でした。

しかしそのザアカイを、イエス様は覚えられたのです。ザアカイと呼びかけられて、イエス様を自分の家にお迎えしたのです。そして今までの生き方をあらためたのです。そして文字通り、正しい人になりました。

新約聖書の中で、名前が出てくる登場人物は少ないのです。しかしザアカイは名前が出てきます。彼は初代教会で有名な人物だったのです。二つの可能性があります。

一つはカイザリヤの司教となった。

もう一つの可能性は、もしかしたら、ザアカイは、ユダの後任として12使徒の一人に選ばれたにマッテヤかもしれない。そのような絵があるのです。ストラスブールにあるノートルダム美術館に貯蔵されるハンス・バルドゥングが16世紀に書いたザアカイ=マッテヤの絵です。

そのザアカイの絵を見ると、彼が真っ直ぐな人になったことがよく描かれているのです。

私たちも純粋で、真っ直ぐに主に仕えたいと思います。