2021年7月18日の説経要約 「夢が実現するとき」

2021年7月18日の説経要約

                                   「夢が実現するとき」  中道由子牧師

                ≪わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。》

                                                                               (創世記45章1~8節)

 

1、神の時

 ヨセフは、エジプトの総理大臣となり、7年の豊作の間に飢饉に備えて穀物を蓄えました。

この飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の子供が生まれました。

長男は、マナセ。「忘れさせる」という意味です。

51節「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」

次男は、エフライム。「増やす」という意味です・

52節「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」

ヨセフは自分のつらい過去は、子供も与えられ、神はもう忘れさせてくださったと思っていたのです。

七年の飢饉が始まったある日、ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝したのです。

 青年であったヨセフが見た夢(37章6〜9節)が、現実となる時が来たのです。

しかし、ヨセフの実の弟、ベニヤミンが父ヤコブと一緒にカナンの地に残されていました。

そして、夢が実現していることを目の当たりにして、ヨセフの中であらゆる記憶がよみがえってきたのです。

ひれ伏している兄たちを前に、彼は自分の思いを潜めながら、初めは見知らぬもののようにふるまい、荒々しく兄たちに接しました。

三、四度にわたって、兄たちにスパイの嫌疑をかけていったのです。

これは、ヨセフの精一杯の抵抗でした。

ヨセフには兄弟たちに復讐をする十分な権威がありました。

それができなかったのは、彼にも少しずつこれは神のご計画ではないかと悟り始めていたからでした。苦悩のうちに働く神の摂理、偉大な神の計画のことを考えるように導かれ始めていたからです。

 

2、葛藤の時

 ヨセフは、血を分けた同じ母の兄弟、弟ベニヤミンに会いたいと思っていました。

ですから、「僕どもは、本当に十二人兄弟で、末の弟は、今、父のもとにおります。」という兄たちに弟ベニヤミンを連れてくるように命じます。

そして、必死の釈明をさせながら、この兄たちの様子を探っていました。

兄ルベンが言います。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」

 彼らはやはり、神に取り扱われていました。ヨセフは、ルベンの言葉に離れて泣きました。

でも、彼らの前に出て来ると、シメオンを縛り上げ、他の兄弟たちを郷里に返します。ただで返したのではなく、兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀を袋に返し、道中の食料を与えます。

 フィリップ・ヤンシーはその著書「この驚くべき恵み」の中で「不自然な行為」についてこう記しています。

「痛みを感じれば感じるほど、赦すことは困難であり、赦した後もその傷が記憶の中に生き続ける。赦しとはそれほど不自然な行為である。」

ヨセフの行動は、ころころと変わっていきます。

一番下のベニヤミンが来ると、盛大に歓迎する。しかし、弟が銀の皿を盗んだと言って捕らえる。

何か月も何年も、このような密計がだらだらと続いていきました。

それくらい、赦しと言う行為に自分を持って行くことができなかったのです。

 堀肇先生著の「たましいの慰めこころの余裕」の中で

「赦しの感情は徐々に」という項目があります

『確かに赦しているつもりだが、ときどき何かの拍子に、ふと昔のことが思い出され、突然、怒りや憎しみの感情がよみがえってくる。』

『傷つけられたことを赦しただけでなく、自分の罪も神様の前でしっかり悔い改めたと思っているが、私の気持ちは晴れず、相手に会えば緊張して顔もこわばり、話をする気分にもなれない。』

『相手に対する否定的な感情で悩まされるということは、赦したと言っても、本当は心から赦していないからなのか?』

主の祈りにあるように、赦すとは感情的なものでなく、意志的な決断の伴った行為です。しかし、人を赦すとき、自分を不自由にしている否定的な感情からも解放されていくのですが、それには時間がかかることがあります。すでに相手を赦していても感情の部分が痛む、そうすると信仰も動揺しやすくなる。受けた傷が深ければ深いほど、赦したとしても簡単に忘れることはなかなか難しいのです。

少しつらいことですが、これには傷ついた感情や自分の弱さにきちんと向き合い、受け入れていくことが、大切です。

そのため、たとえ感情面で弱さが現れても、それは決して恥ずかしいことではありません。

『気持ちが晴れないようなことがあってもいい。』

『ときどき否定的な感情に翻弄されるようなことがあっても心配しなくていい。不信仰なのだろうかと不安がらなくてもいい。』

『神は徐々に、傷つき傷んだ感情を癒してくださるから。』

  C・S・ルイスは、このように言っています。

『傷の手当は神にお任せし、包帯の下がどうなっているか、ちょいちょいのぞかない』と。そっとしておくことです。

癒しは、人の成せることではなく、神様のなさるわざ、神様の時があるからです。

 

3、赦しの時

 ヨセフにとってその時がきました。

44章で、ヨセフの銀の杯がベニヤミンの袋の中から見つかり、その者だけが奴隷として残るように、ヨセフは言い放ちました。

 その時、ユダが嘆願するのです。

「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに黄泉に下らせることになるのです。 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。 なにとぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

ユダは、ヨセフを失ってからの父の様子を知っていました。

そして、末息子のベニヤミンが老いた父親にとってどれだけ大切な存在かも知っていました。

ユダが彼の代わりに奴隷になります、と言った時、平静を装ってきたヨセフが崩れました。ヤコブ一家は本当にお互いを思いあい、守りあう本当の家族となっていたのです。

「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」とヨセフが身を明かした時、兄弟たちは驚きのあまり答えることができませんでした。

その時、ヨセフの口から恵みの言葉がついて出てきました。

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、攻めあったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 ヨセフの感情的な解放と癒しが起こりました。

赦しは、この父が亡くなってから再確認されます。

ヨセフは、自分たちの家族が飢饉から助かるためだけではない、多くの民のためにこのすべての苦難があったことを兄たちに語るのです。

ローマの信徒への手紙8章28節「神を愛する者たち、すなわち、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」