2021年7月25日の説経要約 「すべての人のために祈る」

2021年7月25日の説経要約

                 「すべての人のために祈る」   照内幸代牧師

                                    ≪テモテへの手紙1  2章1~7節≫

 

今日はパウロの教えから祈ることについて考えてみたいと思います。

一つ目に考えたいこと、それは「祈りたくない人のためにも祈るか」ということです。一節に、「王たちと高い地位にあるすべての人のために」と書かれています。当時のこの世界は、まさに上に立つものたちのために、多くのクリスチャンは殺されたり迫害されたりしていた。その王たちのために、「願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」とあるのです。友の命を奪って行ったかもしれない、あの王様が、救われますように、悔い改めて永遠の命を得ますようにと祈るということです。そこで思い起こされるのはやはりイエス様です。私たちの救い主であり師匠であるイエス様は十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか分からずにいるのです」と祈りました。これはパウロがテモテに出したチャレンジなのです。あなたは自分をキリストの弟子であると言っている。それならばキリストがすべての者のために十字架に架かられたように、あなたもすべての人たちのために祈るべきではないだろうか。そして今を生きる私たちにも、その問が投げかけられています。すべての人たちのために、私は祈れるだろうか。というチャレンジです。

次に指摘したいこと、それは祈りが必要ないだろうと思われるような人のためにも祈るということです。1:18-20にヒメナイとアレクサンドロという名前があります。この人たちは、名前を上げれば「ああ、あの人ね」とテモテに分かってもらえるような有名な人たちだったようです。彼らは「信仰の破船に」遭ったと言いますから、以前は立派な信仰者であったに違いないのです。しかしこの両者は何かのきっかけに健全な良心、教えを捨ててしまい、横道にそれてしまったのだと指摘されています。いつも教会にはこの危険が潜んでいることを想います。それは、「この人は立派なクリスチャンだ」と思われるような人のためにも祈るということです。この人は正しい人だ、この人のための祈りは必要ないと思われる人のためにこそ祈りが必要です。

最後にパウロは、「神がすべてのものが救われることを望んでおられる」と宣言します。なぜなら神は唯一であり、神と人との仲保者なるキリストも唯一であるからです。今まさにキリスト教会を迫害しているローマのためにもイエス様は生まれ、死なれ、よみがえられたのです。パウロ自身が、まさにそうやって救われた人であったのです。サウロ自身、憎んで、敵対していたクリスチャンに祈られて今があるのです。神を迫害し、敵であったところを祈られて、救われて、そしてその証者として立てられているのです。そして今、神の選びの器として神様のために働く者になっているのです。

私たちはみな、かつて神に敵対する者でした。しかし主イエス様がそのような私たちを愛して、私たちを選び、私たちのために祈り、恵に招き入れてくださいました。私たちはすべてのもののために贖いとなられたイエス様を思い起こしましょう。そしてイエス様による祈りの戦士として、すべてのもののために祈りましょう。