2018年4月22日の説教要約 「枯れた骨の復活」

2018年4月22日の説教要約
           「枯れた骨の復活」           中道善次牧師     
                 (エゼキエル37章1〜10節)

① 死は勝利に飲まれた
エゼキエル37章に、枯れた骨のある谷が出てまいります。この場所は「墓場」であります。
私たちは、これらの骨がやがて生き返るという結論を知っているので、エゼキエル37章を読んでも、気持ち悪いとは思いません。しかし普通で言うなら、骸骨が転がっている気持ち悪い場所です。
この場所は、死が勝利した場所であります。
エゼキエル書では谷ですが、このところから、イエスが十字架に掛かられたゴルゴタの丘を思い出します。ゴルゴタとは、どくろ、頭蓋骨を意味する言葉です。
この丘の形が頭蓋骨に似ていたからだけでなく、ゴルゴタの丘には、骸骨が散乱していました。
十字架にかけられた犯罪人は、葬りが許可されず、犯罪人の体はカラスや山犬の餌になりました。
聖書では、葬られないことは、呪いのしるしでした。
エゼキエル37章の葬られない遺骨が転がっている場所。それは呪いの場所でした。
呪いとは神から見捨てられることです。バビロンに捕囚されたユダの国の民は、この骨と同じく、神から見捨てられた人々でした。
その場所で、奇跡が起こったのです。枯れた骨がカタカタと音をしてくっついて、体が出来て、息が吹き込まれて、死んだ骨が生き返ったのです。
この預言は、捕囚地からの帰還を意味します。死んだと思われた民族が、もう一度息を吹き返す。再生される奇跡です。そして、この個所をイエスの復活と結びつけることが出来るのです。
死が勝利している場所に、命が入り込み、命が勝利したのです。
コリ1 15:55 「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

② 見通しは明るい
エゼキエル37:3の「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」の答え「主なる神よ、あなたのみがご存知です」には、二つの意味があります。
人間的には「不可能です」という死に対する無力と絶望を表します。
また神を信頼する観点では、人間の限界を超えた神の力があれば不可能ではないという意味になります。
枯れた骨とは、望みを失ったユダの人々の心の状態でもありました。
バビロンに捕囚されても、しばらくの間、人々は希望をもっていました。しかし事態は悪くなり、ついにエルサレムの町と神殿が破壊されました。彼らの中の希望が失われたのです。枯れた骨のように、希望さえも枯れたのです。
そのような中で、不可能を可能にする神様の奇跡がおこったのです。
イースターのために、思い起こすメッセージ、それは「見通しは明るい」です。
復活を信じるとは、物事の見通しは暗くないという信仰の告白であります。

③ 新しい創造
エゼ 37:7〜10の奇跡は、創世記2:7の人間の創造を想起させます。
エゼキエル37:9〜10の「霊」は、創世2:7の「命の息」と同じ「ルーアッハ」です。
エゼキエル37章から、無から有を生み出される神の創造の力を見るのです。
天地創造の時に、土のチリから人を造られたのと同じ奇跡をイエスが行われました。
ヨハ 9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
ヨハ 9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
エスのこの行為は、汚い行為ではなく、「土のちりで人を造り」という言葉に基づいている。
この人の目が生まれながらに見えない。視力の回復ではどうにもならない。新しい目が与えられなければならない。新しい目を造る、創造する、そのためにイエスは、最初の人間が地のちりから造られたのと同じ状況を作り出し、彼の目を新しく造る。そのような奇跡を行われたのです。
2コリント5:17では、イエスを信じる私たちも新しく創造された者です。
甦られたイエスがすぐに弟子たちになさったことがあります。
それは弟子たちに命の息である聖霊を吹き込まれたのです。
ヨハ 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
甦られたイエスが、命の息である聖霊を私たちの心に吹き込まれるように祈ります。