2022年月5月1日の説教要約 「水がぶどう酒に変わった」

2022年月5月1日の説教要約

     「水がぶどう酒に変わった」  中道由子牧師

 

《イエスは、このしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。》

ヨハネによる福音書2章1~12節)

 

1、ぶどう酒がなくなりました 

 ガリラヤのカナで結婚式がありました。

エス様は弟子たちと共にその婚宴に招かれていました。

どうやらこの婚宴はイエスの近い親戚のお祝い事であったようです。

当時婚礼の宴は一週間も続くことがありました。

そんな時、祝宴につきもののぶどう酒が底をついてしまった。「どうしよう」という世話役の困った姿を察して、母マリヤはイエスに事態を解決してくれるように訴えました。

 ぶどう酒はいつでも喜びの時に出されました。ユダヤのことわざに「ぶどう酒がなければ喜びもない」と言われています。人生の一番おめでたいお祝いの席で、客をもてなすぶどう酒が切れてしまったのです。当事者にとってこれほど困ったことはありません。

 私たちの人生にも大切なものが失われる、喜びがなくなった、ということはないでしょうか?そんな時、母マリヤがしたように、イエス様を呼ぶのです。

3節「ぶどう酒がなくなりました」と、主イエス様に訴えるのです。

「私の喜びがうせました。」「疲れています。」「不安が心を閉めています。」「問題があります。」「私は悲しいです。」なんでもいいです。主に訴えるのです。

主は助けをくださいます。

 

2、神の時と創造のわざ

 さて、主はここで母マリヤの訴えに対してどう答えておられるでしょうか?

4節「婦人よ、わたしとどんな関りがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

エス様、それは冷たいと感じますね。しかし、旧約やユダヤギリシャ・ローマ世界では広くみられる表現のようです。否定的な意味ではなくて、「お母さん、どうしろと言うのですか。まだ時ではないのに。」程度の会話だというのです。

 このヨハネによる福音書で、「時」というのは重要な鍵の言葉です。

時は、常にイエス様の十字架の死を意味しているのです。それは神の御計画のうちに定められた時であって、いかなる人間的なものもこれを変更することができない。

果たして「わたしの時」、それはいつ来るのか?

ヨハネによる福音書12章23節「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』」

エス様の時は十字架にかかってご自分の使命を果たす時、であってこの時を軸にすべてが回転しているのでした。

エス様はどんなでも父なる神の御心を行ってこられました。

人に頼まれてとか、自分の考えでしるしを行うことはなさらなかった。

このカナの婚宴のしるしは、イエス様が行った最初のしるしでした。

エス様が給仕の者たちに水がめを水で満たすように命じられると、水がぶどう酒になります。神が天と地を創造されたように、イエス様も「しるし」として創造のわざを行われます。神の創造とイエス様がしるしを行われることは、「造る」(ポイエオー)というギリシャ語が使われているそうです。

エス様がしるしを行われた、それは天地創造の業と同じである。

だから、しるしを見た弟子たちは、イエス様が創造者であられることを知って、この方の栄光を見て信じました。しるしの目的は、イエス様の栄光を現すことでした。

 イエス様を信じたのは、急場を救ってもらった新郎新婦でも、奇蹟に気づいたはずの召使いたちでも、世話役でも、出席者たちでもないことは興味深いことです。

主の教えを聞き、共に生活していた弟子たちでした。

そして、このしるしは弟子たちの信仰を固くするためでありました。

 同じように、主は私たちの信仰を固くしてくださるために今もしるしを行われます。

フィリップ・ヤンシーはこう言いました、「私たちが寄りかかれるものが何もない時、さらには、自分をも信じられないとき、そんなときも神はそこにおられる。」

 

3、喜びの生活へ

  イエス様が奇跡を行われたので、興ざめになるところだった婚礼の宴会に喜びをもたらします。この出来事には大切なことが隠されています。

まず、神の国の生活は、生気のない禁欲的な堅苦しい宗教的なものではなく、活力あふれる婚礼の宴会のだということです。

古いものであるユダヤ教は、底をついた宴会の空のぶどう酒のかめに例えられます。

その信仰は底をつく。

私自身、子供のころから何の疑問も抱かず、仏壇に手を合わせていました。

しかし、そこに私の求めるお方はおられなかった。

本当に悩んだ時、そこに解決はありませんでした。

ぶどう酒の樽が底をつき、破産状態になった時イエス様が来られ、良いぶどう酒があふれます。これは新しい生きた信仰で、古いものよりもはるかに優れた新しいものを意味しています。宴会でぶどう酒を飲んだ人々はその差をはっきりと感じて、「後のものが前のものより良い」と言います。

エス様を信じて生きる人生は、新しい命に満ち溢れているのです。

このお方を信じる時、今まで味わったことがない深い喜びと充足感で包まれます。

それは、聖霊によって与えられる喜びなのです。