2021年11月19日の説経要約 「四重奏の感謝」

2021年11月19日の説経要約

                  「四重奏の感謝」   中道由子牧師

 

≪どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。≫(テサロニケの信徒への手紙一5章18節)

 

 ジョン・クァアン先生の「一生感謝」の本から学びたいと思います。

 

1、あるものに感謝

 五千人の給食の奇跡は、誰もが知っています。

エス様の教えを聞きに、また癒しを求めて大勢の人がついてきました。男だけで五千人なのです。女、子供をいれたらもっと人がいたでしょう。

夕暮れになり、お腹が空きました。

エス様は皆に食べ物を、どのような方法でもあげることがおできになる方です。

しかし、主は弟子たちを試されました。「あなた方の手でそれをやりなさい。」と。それに対して、アンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にもたたないでしょう。」と、否定的な意見を言うのです。

それは、奴隷少年のお弁当でした。小麦ではなく、大麦のパンです。貧しいお弁当です。

大麦五つと二匹の魚で、大勢を食べさせることは不可能なことでした。しかし、このような困った状況で、たとえ少しの食べ物であったとしても、イエス様はあるものをまず御覧になり、それを手に取り感謝されました。

 イエス様がわずかなものを置いて感謝をささげた時、驚くべきことが起こったのです。

大人の男性五千人が食べても、十二のかごに余るという奇跡が起こったのです。

 私たちもイエス様の所に持って行って、今あるものに感謝すれば奇跡が起こります。

 

2、失敗の中にも感謝

 マタイによる福音書11章から、イエス様は伝道旅行で失敗するという苦い経験をされました。

帰って来たのは、侮辱と蔑視だったのです。

 イエス様が、一番信頼して伝道した町々の人々がイエス様を受け入れず、むしろ拒絶しました。 しかし、このような状況でもイエス様は、感謝をささげられたのです。

11章25、「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになられました。」

 大人たちには拒絶されましたが、子供たちがイエス様を受け入れたことが、感謝の理由でした。

そして、すべてのことが、父なる神様の御心の中で行われていることであるとお認めになられました。

「そうです。父よ、これが御心に適ったことでした」と。

 私たちは時々、大きな失敗を経験して、思い通りにいかないと怒ったり、挫折したり落胆したりします。

しかし、失敗と苦痛の中に感謝できることを探すなら、神様は必ず二倍の恵みをくださいます。

 

3、悲しい時にも感謝

これは感謝するのはなかなか難しい。

ヨハネによる福音書11章では、マリヤとマルタの弟ラザロが死んでしまったのです。

しかし、イエス様は、ラザロの墓の前で感謝されました。イエス様は、ラザロが死んでから4日経ってから墓に到着しました。

すでにラザロの墓には死臭が漂っていました。

エス様はラザロの死を悼んで悲しみの涙を流されました。そこにいた人にとって死は、すべてのことが終わってしまったという絶望の状態でした。

墓をふさいでいる石は、もう生きて帰ることはできないという永遠の壁となっています。

悲しみと悼みがあふれる場所で、私たちは何といえばいいか分からず、慰めの言葉を探します。しかし、このような状況でイエス様は、ラザロの墓の前に行き「その石を取りのけなさい」(ヨハネによる福音書11章39節)と言われ、思いがけない祈りをささげられました。

ヨハネによる福音書11章41節「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」

エス様の感謝はあまりにも常識から外れたものでした。

喪中の家でタブーとされている「感謝」ということばを、ためらうことなく使われました。

死の後に復活があり、永遠の命があり、神様がおられるので、悲しいことはないとイエス様は知っておられたのです。

 葬儀でヨブ記1章21節が読まれます。

「主が与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

ここは「今まで、私たちに愛する誰々を与えてくださって、ありがとうございます。今、主の元にお返しをします。」という意味だと言われます。

悲しみの中にも、イエス様は感謝の心を与えてくださいます。

 

4、十字架に感謝

エス様は、十字架にかかられる直前の晩餐の場でも感謝をささげられました。

33歳で生涯を終えるということが、普通なら心が痛むことでしょう。

自分の死を知っていたなら、そのような状況で感謝の思いが出て来ることなどないでしょう。死の事実を受け入れることさえ簡単ではないはずです。

もし私たちが、15時間後に死を迎えるとしたら、どのような気持ちでしょうか?

それも、罪人がかかる十字架の刑を受けるとしたら、果たして感謝という言葉が口から出て来るでしょうか?

おそらく、死刑という言葉を聞いただけで身震いがしてしまいます。

 イエス様も、死を前にして恐れに感情が揺り動かされて、一晩中祈られました。

しかしイエス様は、人類を救う十字架を避けて通ることをされず、死を目前にした最後の晩餐で、こう感謝をささげられました。

ルカによる福音書22章17節「イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。」

19節「イエスは、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから」

 イエス様は、弟子たちと最後の食事をされる厳粛な場で、ご自身の身体と血を象徴するパンとぶどう酒を分けながら、繰り返し感謝をささげられたのです。

 イエス様の感謝は、永遠の命に対する確信と復活の希望を持った者だけがささげることができる感謝でした。

エス様は、生涯のすべてのことを感謝に結びつけられました。

いつも天を見上げて感謝をささげられたイエス様の姿から、私たちは学びたい。