2020年10月18日の説教要約 「天につながる場所」

2020年10月18日の説教要約

        「天につながる場所」    中道由子牧師

  

≪その後アブラムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻サラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。≫(創世記23章1~20節)

 

 

 今日は、召天者メモリアル月間の第三週目です。

 

1、サラの人生(アブラハムの悲しみ)

アブラハムは長年連れ添った妻サラを亡くします。

サラは127歳で亡くなります。サラが何歳でアブラハムと結婚したかわかりませんが、彼女はウルの地から約束の地まで従ってきました。サラは妻として本当によくアブラハムについて行ったと思います。右に行くといったら一緒に右に行った。お前は俺の妹ということにしておけといわれれば、黙ってそれに従った。もちろんその時は神様がサラの立場をちゃんと守られたのですが。アブラハムは、本当に自分によくついてきてくれた妻に感謝していたと思います。妻サラの支えがなかったら自分はとてもやってゆけなかった。そのような「かけがえのない存在」、それが妻サラでした。かけがえのない妻を失った悲しみをアブラハムは思いっきり表現したのです。

23章2節「サラは、カナン地方のキリヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」

当時の人々は夫婦であっても、それぞれ自分の居住する天幕を持っていました。アブラハムは、サラの天幕の中に入って、対面して、悲しみ泣いた。このアブラハムの泣いた姿を、注解者は次のようにコメントしているのです。

「これは号泣である。胸を打ち、地に付して大地をたたき、わめくように大声をあげた。」と言うのです。アブラハムは、おいおいと声をあげて泣いたのです。もちろんそれぞれの文化で、悲しみの表現の仕方に違いがあるでしょう。日本人は、喜怒哀楽をあまり素直に表現しません。男性は、親が死んでも、妻がなくなっても、泣いてはいけないというような、感情を抑える傾向があるかもしれません。しかし、あえて悲しみを表現することは大切です。アブラハムはここで、悲しみをストレートに表現いたしました。

私たちの救い主、イエス様もまた友達ラザロが亡くなったときに涙を流されたのです。

「イエスは涙を流された。」ヨハネ福音書11章35節は、聖書の中で一番短い節だといわれています。しかし同時に一番重い節だとも言われています。

エス様が、涙を流されたのです。友達が亡くなった時に、泣かれたのです。ここでもほろりと涙を流されたのではなく、悲しみの表現を強くされたのです。

葬儀で「いつくしみ深き」を歌うことがあります。その中で「我らの涙のもとをよみたもう」という歌詞があります。イエス様は、同じように悲しみを経験された。だから私たちの悲しみを理解し、受け止めてくださるお方なのです。

そして、涙を流すことは癒しを与えるのです。

 

2、心を込めた葬り

愛する人が亡くなっても、私たちは悲しみにばかり暮れているわけには行かないのです。葬りをしなければならないという現実が待っております。

アブラハムも同じでした。悲しみのうちにもアブラハムは葬式や墓の手配を始めなければなりませんでした。ここでいきなりお墓が出てきます。4節です。私たち日本人の葬り方で言うなら、最初は前夜式と告別式を行います。火葬が終わり、遺骨になってから、墓地のことを考えます。しかしイスラエルの人々の葬りは違います。昔も今もそうですが、火葬を行いません。亡くなってから24時間以内に、遺体の防腐処置をして、布に包んで、お墓の中に安置する。だからアブラハムも、サラのお葬式をするには、すぐに墓地が必要だったのです。私たちも、愛する家族がなくなって、すぐにすることは葬儀の手配です。葬儀社さんと交渉をします。人が何人来てくださるだろうか。お返しをどうするか。食事をどうするか。悲しみに暮れている間もなく、葬儀を行わなければならない現実があり、またそれに伴なう費用が発生するのです。同じ事をアブラハムは経験しました。しかも普通よりも厳しい交渉を迫られたのです。

その厳しさの一つは、自分は「よそ者」であるということです。

4節に「一時滞在する寄留者」とありますが、今で言うなら、市民権や永住権を持たない外国の人だということです。それは土地の所有権がないということです。日本でも永住権を取得すると不動産を購入することが出来ますが、アブラハムはここで、サラのお墓を購入する時に、永住権申請を行ったのです。

ですから交渉は法的に正式な場所で行われたのです。それが町の門の前でした。

町の門の前は、町の長老が集まる裁判所のような場所でした。そこでの交渉です。

最初、アブラハムはほら穴だけを譲って下さいとお願いするのです。アラブ人のしたたかさを知らないと、どうぞただで使ってくださいよといわれて、はいそうですかとなります。しかしここでは、巧みに土地の所有権を断っているのです。墓地はただで使用させてあげますよ。でも売りませんよ。つまりあなたの市民権は、永住権は認めませんよ。ただでどうぞ、というのは寄留者、外国人としてどうぞ、という意味なのです。無償贈与は、不完全な所有となります。それに対してアブラハムは、永久的な所有のために十分な代価を払いますから、墓地を購入させてくださいと申し出るのです。

具体的に名前があげられたエフロンは、アラブ的な交渉術に入るのです。ほら穴だけではありません。畑も一緒に差し上げます。これも巧みなアラブの交渉術を知らなければ、ありがとうございます。ではいただきますとなってしまいますが、そうなれば一生、恩着せがましく言われるのです。私はアブラハムに、お墓も畑もただで使わせてやっているのだ。そう言われ続け、一生外国人扱いされるままなのです。

エフロンの言葉には裏があるのです。もしお墓がほしければ畑も一緒に買いなさい。そうでなければ売りませんよ。エフロンは、人の悲しみにつけ込んで、吹っかけてくるのです。それが15節です。ここでも翻訳された聖書の言葉だけ読んでいると、ああ、安い買い物だと思ってしまいますが、これはとんでもなく高い値段なのです。

BC1700の畑が銀400シェケルです。しかし、アブラハムはただではない、ちゃんと代価を払います。そこにはアブラハムのお墓に対する信仰があったのです。

ヘブル語でお墓は、ベイト・オーラームと言うのです。ベイトは「家」です。オーラームは「永遠」です。永遠の家、つまり、天国に繋がる場所、永遠の命の関係がある場所、それがお墓なのです。永遠の命を、天国を自分のものにするには、この地上のどんな宝をつぎ込んでも惜しくはない。そのぐらい価値のあるものだとイエス様はおっしゃっておられます。ヨハネによる福音書14章3節「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」

地上のお墓は、イエス様が用意してくださる「永遠の家」に一番近い場所であります。。

 

3、神の約束の実現

アブラハムは妻サラを亡くしました。しかしサラの葬りで手に入れたものがあります。

その一つは、お墓です。二つ目は、墓と一緒に買わされた畑です。高い金額であったのですが、「この土地をあなたに与えます」と言われた神様の言葉が実現したのです。

約束の地にきて、所有の土地を得たのであります。

三つ目は、畑の所有に伴なって、その土地に住む市民権、あるいは永住権を得たのです。もはや「よそ者」ではないのです。一時滞在の外国人ではないのです。神様の約束の実現に大きく前進したのです。

マムレ(ヘブロン)は、土地と子孫に対する神の約束の地でした。

アブラハムは、「この地をあなたと子孫に与える。」と言われた約束の地の所有者となりました。これ以後、アブラハムとその子イサク夫妻、孫ヤコブと嫁のレアが順番にこの場所に葬られることになります。この地は、後日、イスラエルがカナンの地を所有するようになる約束の成就のシンボルです。

アブラハムは最愛の妻を亡くしましたが、そのことを通して、神様が約束しておられたことの実現を目にしたのです。私はアブラハムに起こったこのような出来事が、今年愛する方々を天国に送った私たちにも約束されていると信じています。聖書の言葉で言うなら、お墓は永遠の家と訳されますが、私たちの愛する家族は、永遠にお墓の中にいるわけではありません。イエスを信じて眠りについた人たちを、神は導きだしてくださいます。地上の最期の家であるお墓から天にある永遠の家で、再び愛する者たちに会える日を待ち望みましょう。