2018年6月24日の説教要約 「命のパンを与えるイエス」

2018年6月24日の説教要約
「命のパンを与えるイエス」     村岡貞海牧師
ヨハネ6章1〜15節>

 5000人の群衆を眺めながら、あわれみの心を持つことが、神の国の奇跡を起こす最も重要な最初の法則です。あわれみの心を抱くとき、神は私たちの生活を通して驚くべき奇跡を起こしてくださいます。過越祭が近い時に、イエスガリラヤの海の近く山に登りました。そこには男の人が5,000人ぐらいいました。彼らはイエスの言葉を聞いて癒しを受けていた時、夕食の時間が近づいてきました。この時、十二弟子がイエスに要求をします。 「日が沈んで来たので、十二人の弟子がイエスに近づいてきました。」
「私たちは人里離れたところにありますので、人々を送って周辺の村と農家に行って寝る場所を探して食べることを得させてください。」「(ルカ9:12)しかし、イエスは人里離れたところにある弟子たちに、「あなたがたは彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9:13)と言われました。すでにイエスは奇跡を起こす計画を持っていました。
しかし、イエスは人々を通して奇跡を起こすことを願われました。そしてその奇跡を通して、イエスが誰であるかを教えようとされました。
小さな可能性で起きた大麦と魚の奇跡、今日の本文を見れば、イエス様が三回の重要な言葉を話されます。
1.弟子ピリポに向かって投げる質問

今日の本文のみことばであるヨハネ6章5、6節を見て下さい。「イエス目を上げ、大勢の人が自分のところに集まってくるのを見て、ピリポに言われた。 『私たちはどこからパンを買って、この人を食べさせようか?』イエスはピリポを試そうとして質問されたものであり、実際に自分がしようとすることを事前に知っていました。」ピリポはどのくらいのお金がかかるのかを計算します。ピリポの心には、飢え人々に向けたあわれみの心がありませんでした。イエス様が病人を直して下さり、空腹な者に食べ物を与える時、イエス様の心にはあわれみがあります。私たちに必要なのは、計算ではなく、あわれみです。
5,000人の群れを眺めながらあわれみの心を持つことが、神の国の奇跡を起こす最も重要な最初の法則です。あわれみの心を抱いた時、神は私たちの生活を通して驚くべき奇跡を起こしてくださいます。

弟子アンドレが一人の少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹を持って来ます。
「弟子たちの一人であり、シモン・ペテロの兄弟であるアンドレが言いました。
『ここに少年が大麦のパン五つと魚二匹を持っています。しかし、このように多くの人々にそれがどのようの役に立つでしょうか?」(8〜9節)アンドレは大麦パンと魚の奇跡を予測したものではなく、イエス様が探しておられる言葉に従うだけです。
この小さな心、可能性によって奇跡が起きました。私たちの中の最も小さい可能性、一人のお弁当にしかならない、食べ物をイエスの前に持ってきたとき、奇跡が起こったのです。
「イエスは言われました。 『人々をすべて座せなさい』そこは広い草原だったが、男たちが囲み座ったら5,000人ぐらいになりました。」(10節)イエスは人々をすべて座らせました。

2.大麦のパン五つと魚二匹を持って感謝の祈りをささげた

11節に第三の奇跡が出てきます。「イエスはパンを持って感謝の祈りをささげた後、座っている人に必要なだけ分け与えました。魚をも同じようにされました。」
神様は私たちの必要を満たし、お腹いっぱいに与えられます。私たちに与えられた最小の可能性を握り、神様の前に進む時、奇跡が起こります。奇跡を起こす時、イエス様が私たちに教えてくださったのは感謝の祈りです。非現実的な状況にぶつかっても、私たちに与えられた最小の可能性を握って感謝の祈りをささげるとき、私たちの前の詰まった城壁は崩れて閉じたドアは開かれて、奇跡は起こるものです。感謝が奇跡を起こします。

3.無駄にしない、豊かさ
“満腹の危険、奇跡の危険 "をここで見たいのです。
彼らがすべてを食べて満腹になった後、イエスは弟子たちに言われました。
『残ったものは一つも捨てずに集めておいてください。』(12節)イエスが奇跡によって与えたパンを腹いっぱい食べても十二かご残りました。人々は満腹して残りのパンを見向きもしませんでした。しかし、イエス様は、残りのパンを捨てずに集めて置くようにと話されます。
なぜそのように言われたのでしょうか?イエスは、必要に応じ、引き続き奇跡を起こしてパンを得ることができる方です。しかし、イエスは奇跡を経験した彼らを幻想の中に留まるようにしていません。イエスが奇跡的に造られたパンは、人々の口に入って満腹を与えて終わる空想のようなパンではなく、放っておけば腐敗する自然なパンでした。
私たちは奇跡だけに従い、奇跡で満腹すると、まことの神を礼拝するのではなく、その奇跡だけを求めるようになります。
神を求める理由が神を高めることでなく、満腹になる奇跡のためになります。
15節を見れば人々からその危険性が表示されます。「イエスは彼らが来て強制的に自分を王としようとすることを知っておら一人戻って山に登っていきました。」
人々はイエス様だけに従えば飢え死なないと思います。いつでも空腹になればイエスが奇跡を起こすという気がしたのです。
彼らはイエスを信じていたが、正しく信じていなかったです。満腹のリスク、奇跡の危険がここにあります。
奇跡に酔いしれて奇跡に従う人にされないように、汗を流し働きによって食べることが、どのように大きな奇跡であり、感謝が起こっているのを知ることです。
小さな捧げものを感謝の祈りを捧げ、分け与え豊かにしてくださる。神様の憐れみを喜び感謝する日々となりますように。