2018年6月17日の説教要約 「実によって木を知る」

2018年6月17日の説教要約 「実によって木を知る」 中道由子牧師
≪すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。≫ (マタイ7章15〜20節)

私達はイエス・キリストを救い主として受け入れることにより新しく生まれ変わり造りかえられました。英語でボーンアゲンといいます。それは、私達が完璧な存在になるのではなく、成長課程のスタートです。
パウロはピリピ人への手紙で
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
(ピリピ3:12)
と言っています。継続する課程、成長のプロセスにあるということです。
生まれ変わった私達ですが内側には蓄積された過去の記憶や心の傷、恐れやプレッシャー、怒りや憎しみ、裁く気持ちなどをもったまま信仰生活を送っており、実際には戦いの中にいます。どうにもならない家族の回復、夫婦の回復、親子関係に直面することもあります。私達は表面の問題を聞きます。そしてそこには実がみえます。
人々の問題を聞くとここにいろんな実があります。
もちろん根っこが良いと良い実を結びます。しかし、ここに見る悪い実、怒り、憎しみ、否定、拒絶などがあります。その原因は根っこにあることが多いと思うのです。
私たちの性質の根の部分は、0歳から6歳まで築かれる、と言われます。そして、私たちの性格構造である幹の部分は、6歳から12歳の間に形成されます。
今日は、2つの根っこを見てみたいと思います。

1,父母を敬わない(軽んじる)

 2つの御言葉を見ましょう。
「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられているとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」申命記5:16 
「父母を呪う者 彼の灯は闇のただ中で消える。」箴言20:20
  
私達は幼児期に自分の父親や母親の姿を通して神がどんな方であるかを知るようになります。両親の態度や行動を通して、神がどんな方であるかを「見る」のです。
そしてこの時期の体験によって形成された裁きや期待というレンズを通して、その後の体験を捕らえるようになります。裁く気持ちが多くあると、人生や神に対するみかたが歪んだものになるというのです。大人になる頃には、頭では、神は愛と祝福の神であると知るようになったとしても、心では「神様はお父さん、お母さんと同じじゃないか」と思っています。親としての責任を果たさない親を持つ場合は、神様に祈ってもどこかで「神様は当てにならないから、祈っても自分で頑張らなくっちゃ。」と思ってしまう。
 私たちは完璧な親に育てられた人は一人もいません。また人生に起きる事柄にいつも正しい反応を示し、罪を犯したことがない人もいません。そのため私たちは大なり小なりパフォーマンス指向を内側に抱えています。世界中の文化は、それぞれ違っても、常にパフォーマンス指向をあおり立てる傾向があります。私たちは皆、人に認められたい、評価され、何らかの形で報われたいと願っています。
「ちゃんとしたことをすれば、受け入れてもらえる。」「一生懸命頑張れば、愛される。」
けれども目標に達しても、より愛されているようには感じないために、たとえ素晴らしい成功を収めたとしても、満足することができない。また、努力しないと、愛される資格がないと感じたりします。
 神様は私たちをありのままで愛し、無条件に受け入れて下さっています。
頑張りすぎることがいらないのです。

完全な親はいません。ただ不思議なことに、自分の親は良い親だ、と思っている方よりもこんな問題があった、と分かる方のほうが親を赦し、解放されやすいのです。自分の親は良い親で完璧だと思っている人は、傷を受けていても簡単に思い出せなかったりそんなはずはないと認められなかったりします。
また、厳格で怖い親だと父なる神の深くて大きな愛が感じ取れないのです。
だいたい母親が子どもを産みますが、子供の霊を建て上げるのは父親の役目だと言われています。私達は「天の父なる神様」と祈るのですから。
子育て中の方には特に、子供を躾で叱ることがあっても最後は抱きしめてあげて下さい。躾は鞭であって必要ですが、戒めはハッグで愛情です。

2,裁く思い
 2番目の裁く思い。苦い根という表現もあります。
これは幼児期に誰かに対して抱いたもので覚えていないものもあります。
人間関係で同じパターンを繰り返すケースです。この苦い根の裁きは蒔いたものを刈りとる、という神の不変の法則から来ています。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の測る秤(はかり)ではかり与えられる。」
(マタイ7:1,2)
 人を裁くとブーメランのように自分に返ってくるとよく言われます。神様は侮れないお方です。幼年期に実際に傷を受けたり、じぶんが傷と受け止めたりした事で親を裁き、責めた、とします。私達は自分が裁く気持ちをもったことをすぐに忘れますが、それは種として蒔かれ、ちょうど条件が揃って芽を出す時まで、眠った状態にあるわけです。
 良い木は、悪い実を生み出しません。強要したり支配したりすることは、悪い実です。それが愛の心から出ることはありません。愛は良い実だからです。支配は悪い実です。
「あなたのためを思って言っているの。」という言葉であっても、愛からでなく支配からであれば、根っこに問題があります。親が批判的で、小言の多い、支配的な人であれば、子供はそれを嫌います。けれども、親を裁いたり憎んだりするのは良くないと、気持ちを押し殺すと、実はまだ見えません。しかし、やがて自分にされたようにする自分になっていく、これが刈り取りです。

「家族の回復」の著者ジョン・サンフォード先生のお母さんは、ジョン先生を主に献げて育てました。ジョン先生に一生懸命仕事をさせ、厳しく仕付けました。ジョン先生にはお母さんの動機が分からなかったために、仕事や躾に対して怒りを感じていました。牛や鶏の世話、果樹園や広大な畑や庭を整備し、その仕事には終わりがありませんでした。お母さんは、いつも、もうひとつ仕事をすれば遊ばせてあげようと約束しました。遊びはすぐに中断され、お母さんは別の用事を言いつけ、また次の用事です。毎回約束が交わされ遊ぶチャンスがあるのに、必ず別の用事があります。そしてまた、もう一つ用事をやれば遊びに行けるのです。兄弟とトランプをする時でも早いのです。すぐにやってしまわないと中断されるからでした。ジョン先生は。このお母さんの要求を裁きました。そして、やがて「神様は私をこのように扱うんだ。」と思うようになりました。常に、別の仕事が与えられる。自分には遊びや人生を楽しむことがなかったそうです。ジョン先生にとって、人生は仕事、仕事、そしてまた仕事でした。遊ぶ機会があっても彼は決してリラックスできなかったのです。家族で休暇に行っても、キャンプを始めた途端に、問題を抱えたキャンパーを捜してカウンセリングを始めたり、何かの手助けをしようとします。それで奥さんをよく怒らせたそうです。けれど彼の心には、神様は僕を休ませてはくれないと、神を責めていました。神様は彼に休息を与えて祝福しようとするのに、彼はそれを許さなかったのです。この苦い根は、家族の幸せな時間を次から次に損なっていきました。子供たちは、「パパの天国は、カウンセリングルームの外に一マイルほどの列が続いていて、パパは一人一人を助けてあげるところ。パパにとって地獄は、大きな肘掛け椅子と素敵な本があって、何もすることがなくて、パパのためにみんなが何かをしてあげようと待っているような安らぎの場所だね。」と言っていたのです。しかし、ジョン先生は実際自分がそうであることに気が付いていなかったのです。いえ、気づいていても認めたくないものです。
大切なことは自分の苦い根の裁きに気づき、認める時から始まります。イエス様の十字架のもとにその裁く心、苦い根を持っていきます。ホーリネスのきよめもまた自分の罪の根がイエス様の十字架にともに付けられたと信じるところから始まります。
 私たちは自分たちの根っこに気づいても、古い自分の生き方が身についていてその方が心地いいのです。スヌーピーにでてくるライナスという男の子が古い毛布を持っているように、古い生き方のほうが愛着があるのです。悪魔は何度も古い生き方の方が楽だよ、と誘惑してきます。私たちはその度に、イエス・キリストの御名によって、ノー!と叫び新しい生き方を選び取るのです。最初はエネルギーが要ります。でも新しい生き方が身についてくると、自然に新しい、解放された生き方を選ぶようになっていきます。