2018年7月1日の説教要約 「主の13人目の弟子」

2018年7月1日の説教要約 「主の13人目の弟子」 中道由子牧師

≪イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った≫
(マタイ福音書9章9〜13節、10章1〜4節)



1、マタイの召命 
エス様が多くのしるしとわざを行い、神の国を伝えられた時、多くの人が熱狂的に
エス様に従い、イエス様の弟子になることを願い出た人もいました。
新共同訳聖書では、8章18節は「弟子の覚悟」という小見出しになっています。
マタイ8:18〜22で、イエス様について行きたいと言った律法学者や弟子の一人の願いを簡単には受け入れませんでした。自ら願ったからといって弟子になれるわけではありません。弟子になるには、多くの代価を払わなければならないとイエス様は教えられました。
 ところが、ここでマタイに対しては全く違う状況が書かれています。
9章9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい。』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

弟子になると願い出もしない取税人マタイに対して、従うようにと言われたのです。
 聖書を見ると、主に召されることなく神の国の働きをした者は一人もいません。
私たち一人一人もそうです。神様に呼ばれなくて教会に来た人は一人もいません。
幼い時から教会にいた人も、友人や家族に誘われた人も、皆神様が呼んで下さったのです。しかし、もう一歩進んで弟子になるということは、自分が志願するだけではなれない。
 
ヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。・・・わたしがあなたがたを任命したのである。」
神様が人を選ばれるのです。人が選ぶとしたら、かっこいい人、頭がいい人、家柄がいい人、人間関係が円滑である人、仕事能力に優れている人、現代ではコミュニケーション力があるとか、気が利いてしかも忍耐強い、打たれ強いなどあらゆる角度から人材が求められます。しかし、イエス様が人を選ばれる目は違う所にあります。
ファリサイ派の人にとっては、人々が度外視していた取税人マタイでした。
エス様は通りがかりに、マタイが収税所に座っているのを見かけて、それだけで「わたしに従いなさい。」と言われたのです。当時取税人は、人々からさげすまれ、嫌われていました。ユダヤ人なのにみんなから税金を取り、支配国のローマに支払う、その中で合理的にお金を搾取したりする取税人もいました。信仰と民族を裏切る裏切り者として、取税人は会堂にも入ることが出来ませんでした。裁判の証人に立つことも出来なかったのです。泥棒や強盗、殺人者と同じように扱われました。
それくらい無視され、さげすまれていた職業のマタイをイエス様は召し出されたのです。
エス様が人を選ばれる基準があります。
12節のイエス様の言葉です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
エス様の目にはマタイは霊的に病んでおり、イエス様を求めているとわかったのです。イエス様の愛とあわれみ、恵みに飢え渇いていました。マタイは、自分の職業を誇れないことはよくわかっていました。非常に孤独で寂しい彼は、「自分なんかがイエス様のもとにいけるわけがない。」と思っていたでしょう。しかし、心の奥底では、切に主を求め、自分の人生の転換点を迎えたいと思っていたのです。
エス様が収税所を通過しようとして、そこで座って通行税を計算しているマタイを見てすぐに「わたしに従いなさい」と言われました。マタイの心を見抜いておられたのです。
マタイは、心が純粋で貧しかった。だから、イエス様の言葉にためらわずにすぐに従ったのです。彼は、仕事も生計も捨てて直ちにイエス様に従いました。
「わたしに従いなさい」とは、ほかのことは、明け渡しなさいということです。
お金を扱っていたマタイですが、神と富と両方に仕えることはできません。
 例えば、結婚して一人の男性を選んだら、人類の半分を超えるすべての男性をあきらめたということです。自分の夫よりも、背が高く、ハンサムで、優しく、頭も良い人もいるでしょう。しかし、一人の男性を選んだということは、他のすべての男性を諦めることです。結婚した男性も同じです。妻よりも気立てが良く、美人で優しい人がいても、一人の人を選んだ、結婚した、ということはほかのすべての女性をあきらめたということです。
ひとつを選択したことは、他をあきらめたことです。
この世の富よりも、この世の成功よりもイエス様を選んだ人に対して、神様の保証があります。保証があるから、イエス様は「私に従いなさい」と言えるのであります。神様ご自身がその結果に責任をもってくださいます。
マタイによる福音書の最後の言葉はイエス様の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で終わっています。イエス様に従った生涯が、あの時従って間違いのない道だった、満たされた道であったことを証ししているのです。

2、12弟子の訓練の方法
読んでいただきました10章1節からは、12人の弟子が選ばれた個所です。
ルカによる福音書の並行記事を見ますと、
ルカ6章12節「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」
13節「朝になると、弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。」とあります。
エス様は弟子たちを選ばれる前の晩に、夜を徹して祈り選ばれたのです。神の国で大切なのは、人です。この12弟子は、イエス様の祈りの実でした。
弟子は、生まれるのではなく、作られるのです。完全な人ではなく、神が用いるのに相応しい人へと主が変えて下さるのです。この12人の弟子たちを見る時、信仰が弱く、謙遜でもなく、霊的な理解力もない人たちばかりでした。
しかし、ここに重要な鍵があります。
主は今の彼らではなく、彼らの未来の姿を見られたのでした。
エス様が私たちを選ばれたのは、私たちが賢くて、優れているからではありません。
何の取り柄もなく、霊的に鈍く、信仰も弱く、傲慢で心変わりしやすいことを十分知りながら、涙と忍耐と祈りによって、イエス様が願う人に変えて下さるのです。
 次にイエス様の弟子たちの訓練の方法です。
12人の弟子たちを分析してみると、新しいグループに分けることが出来ます。
マタイによる福音書、マルコによる福音書ルカによる福音書に12人の弟子のリストがあります。少しずつ順序が違いますが、共通点があります。
ペトロ、フィリポ、アルファイの子ヤコブを中心に、イエス様の12弟子が新しいグループを形成していることがわかります。
ペトロを中心にしたアンデレ、ゼベダイの子ヤコブヨハネのグループ。
フィリポを中心としたバルトロマイ、トマスと徴税人マタイのグループ。
アルファイの子ヤコブ小ヤコブ)を中心としたタダイ、熱心党のシモンイスカリオテのユダのグループです。
 マルコによる福音書6章7節に興味深いことが書かれています。
「12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」
12弟子が4人ずつの新しいグループになり、また2人ずつを一組として遣わしたのです。
 ここにイエス様の伝道の方法と共同体としての教会のあり方があります。
礼拝の説教は、私たちの信仰を後押しするものです。
しかし、小さな共同体は大切です。その中でぶつかったり、励まされたり、世話をされたり、祈られ、祈りつつ生きた共同体としての教会となっていくのです。
一人で祈ることも大切です。二人で祈ればもっと祝福を受けます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)

3,召された目的
 最後に、イエス様は何故、何の目的で12弟子を選ばれたかをお話しします。
10章までは、主はひたすらお一人で人々を教え、病を癒やし、悪霊を追い出す働きをなさっておられました。
しかし、9章35節からを読むと、表題には「群衆に同情する」と書かれています。
36節「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
収穫が多いが、働き手が少ないのです。収穫のために働き手が必要なのです。
あまりにも主を求める人が多く、人々の霊的状態が悲惨で、12人の弟子を選び、この働きに尽かせたのです。
 12人を派遣するに当たって主は7,8節でこのように語っておられます。
10:7「行って、『天の国は近づいた』と、宣べ伝えなさい。」
10:8「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

主の権能を彼らに分け与えたのです。彼らが聖霊を受けたのは、主が甦られたあとです。
ですから、このときは主からの権能、宣教の働きを委ねられたのです。
私たちは、主から聖霊をいただいています。祈れば主は答えて下さいます。
「とてもそのような働きは出来ない。」と思いますか?

今から10年くらい前3月でした。教会員から電話がかかってきました。湯河原の老人施設に入院しているお母様が危篤状態だから、すぐに来て祈って欲しい、と言うのです。
広い立派な老人施設でしたが、お母様は酸素マスクをして息も絶え絶えでした。どう考えても時間の問題のような気がしました。教会員の姉妹の声にしか反応しないのです。それでも「主よ、復活の息吹を注ぎかけて下さい。」と祈り、耳元で「いつくしみ深き」を賛美して帰ってきました。
山の中だったので、花粉症の私は杉花粉にやられ、一晩鼻が詰まって眠れない夜を過ごしました。ところが、姉妹から連絡があり、「先生が来て下さって、お祈りして下さってありがとうございました。母は持ち直しました。」と言うのです。正直「えっ!」と耳を疑いました。私が確信をもって祈っていたわけではなかったからです。
それからお母様は回復なさって、意識も回復し、信仰告白をなさって、病床洗礼を受けました。その時私は一緒に行けませんでした。そして、その次の時は、聖餐式を持ちました。その時も私は都合が悪くて行けなかったのです。
そして、半年後このお母様が天に召されたという知らせを受けて、湯河原の施設に行きました。お医者さんに安らかな最後を聞かされ、教会員の姉妹とお医者さんが「3月の時は奇跡的な回復だった。信じられない奇跡だった。」と話すのです。
私にとっては、実感が湧きません。私が知っている姿は、息も絶え絶えの苦しいお姿と息を引き取られたお姿だけです。でも神様はあの時の実に力のない、確信のない、私の祈りを聞いて下さったのです。
今も私は病の方に、ヨハネ3章16節の御言葉と復活の力を持って癒やしてくださるように祈ります。
主は私たちを13人目の弟子にしてくださいます。
ヨハネ3章16節≫神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。