2018年7月8日の説教要約 「天の御国の奥義」

2018年7月8日の説教要約 「天の御国の奥義」 中道由子牧師
≪良い地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。≫
(マタイ福音書13章1〜9節、24〜32節)


ここで使われている「譬」(たとえ)は、ギリシャ語の成り立ちとしては、「あるものの傍らに別のものを置く」という意味だそうです。イエス様が使われた言葉はアラム語で、ヘブル語の親戚の言葉です。ヘブル語では、「譬え」は、「覆われた話」という意味だそうです。覆ってしまう、そして、その謎を解くのです。

1、四種類の地 
 当時のユダヤの人々の農業は、種を落として歩いたのです。ロバか馬に袋を背負わせて、その袋の中に種を入れておく。その袋に穴を開けておいて、そのロバか馬を歩かせると、ポロポロ落ちていって、それが種まきになるというのです。しかも、きれいに耕したところに種を蒔くのではなく、種を落としておいて後ですき返すのだそうです。うまくいく場合とうまくいかない場合が出てきます。そしてここで重要なのは種ではなく、地です。

①道ばた
道ばたに蒔かれるとは、同じ条件、環境、場所で神の言葉を聞いたのに、聞いても拒み、そのみ言葉に対して無関心で、悟ることができない状態の人です。
もし私たちが礼拝や聖会などで説教を聞いて、話がうまいとかへただとかで終わって自分と結びつけることがなければ、道ばたに落ちた種だということです。
御言葉を上から見たり、自分の思うようにしようとしたら、実を結ぶことができません。この道ばたのように心が堅く固まっている人は、そのまま放っておくとどうなりますか?
4節「鳥が来て食べてしまった。」のです。19節でイエス様はこの鳥を「悪い者」と説明されました。御言葉が蒔かれましたが、私が御言葉を理解し、悟り、謙虚に受け入れて、御言葉が心に根を張らなければ、鳥が来て食べてしまうと言うのです。御言葉の前にひざまずく謙虚な姿勢が必要です。

②石だらけで土の少ない地
この人は、天の御国のみことばを受け入れはします。「道ばた」のようにかたくなではありませんが、その心は石だらけなので、種が根を張ることが出来ません。信仰の基礎が弱いのです。この人は、すぐに福音を受け入れます。しかし、簡単に挫折して、すぐにあきらめてしまいます。上がったり下がったりです。感情的なのです。今日は恵みを受けても、明日は別人のように落ち込んでしまいます。それは、その信仰が御言葉に根ざしていないからです。
教会の花壇に新しい土を入れ替えました。もし、石だらけで土が少ない地に花を植え替えても枯れてしまうでしょう。私たちの心も同じです。
すばらしい主の救いの経験も、その時の感情は薄れていきます。すばらしい聖会に出て、恵みをいただきます。力いっぱい賛美をして恵まれます。でも、その信仰が御言葉に根ざしていかないなら枯れてしまうでしょう。御言葉は聖書の事実です。そのみ言葉を信仰を持って受け止めるなら喜びが与えられます。それが逆になり、感情を土台にしたら「昨日は救われている気がしたが、今日はそうではない」という不安定な信仰になってしまいます。

③茨の間
茨の中に落ちた種のような人も、同じように天の御国のみことばを聞きました。
地も良く、根を張り、いざ芽を出し、茎を伸ばそうとするのですが、問題は威勢の良い茨の中に閉じ込められてしまうということです。イエス様はこの茨を、世の不安や心配だと解釈されました。この世には、心配のない人はいません。
心理学者のアーニー・ゼリンスキーは、このように言っています。
「心配の40%は、決しておこらないことであり、
心配の30%は、すでに起こってしまったことであり、
心配の22%は、取るに足りないことであり、
心配の4%は、私たちの力ではどうすることも出来ないことであり、
心配の4%は、私たちが変えることの出来ることである。」

心配事があるたびに心の重荷を神様に任せるのは、思うほど簡単ではありません。
しかし、心配は、神様より自分の恐れの感情を信じるときに起きます。
明日は神様のものであることを忘れないようにしましょう。
もう一つの意味は、誘惑です。
エス様を信じようとしても、富の惑わしが自分の信仰の上に茨のように覆います。そして、成長しようとしては挫折するのを繰り返し、結局実を結ぶことが出来ません。
新聖歌428番に「キリストには代えられません」という賛美があります。
「キリストには代えられません 世の宝も富も 」「キリストには代えられません 有名な人になることも 人の褒める言葉も」
このきよめの域に達する時、覆っている茨は枯れていくでしょう。

④良い土地
良く耕され、整えられた、肥沃な地に種が蒔かれると、よく成長します。
天の御国のみ言葉を聞き、子どものように喜び、吸収し、良く悟って自分のものにする人です。この人は、特別な活動をしたわけではなく、ただみ言葉を良く受け入れただけですが、この人に静かな奇跡が起こり始めます。あれほど憎んでいた人への憎しみが消え、赦せなかった人を赦せるようになります。周りの人のせいにしていた人が、自分の罪だと悟ります。その人は、価値観や考え方が変わったのを感じます。心が貧しくなり、柔和で謙遜になり、神様の御心の道を考えるようになります。自分の人生が一つ一つ整理されていきます。これが変化です。御言葉が心を刺し、自我を粉々に砕いて変えてしまうのをしらないうちに感じるようになります。御言葉がその人のうちに深く入るようになります。そうすると、御国のようでない環境でも、ハレルヤ!御国がその人の心を支配し、感謝であふれます。

2、良い種と毒麦
 種が良い地に落ちて育ち、実を結べば、それで終わりでしょうか、イエス様はそうではないと言っておられる。そして続けて毒麦の喩えを語られます。
種をまいてすべてがうまくいくわけではなく、予想もしなかったことが起こります。実ったとき、毒麦が現れるというのです。これが天の御国の現実です。天の御国は、毒麦と一緒に育つというのがこの譬えの要点です。
第一にサタンは毒麦を夜のうちに、こっそり蒔きます。これがサタンの方法です。サタンに抑圧されている人は、夜、行動します。ほとんどの悪事は夜、行われるからです。サタンが破壊者であり、殺人者であり、嘘つきです。また、告発し、そしるものです。サタンの究極的な目的は、神の子供たちの霊的息の根を止めることです。サタンのやり方は、狡猾です。麦から栄養分を吸い取って毒麦は成長するのです。毒麦は完全に寄生して生きています。クリスチャンに寄生して、栄養分を吸い上げて生きているのがサタンの勢力だというのです。私たちの力ではどうすることもできません。長い間一緒にいるとよくありません。
第二に、サタンの方法は、まねをすることです。良い種とよく似た毒麦を蒔きます。驚いたことに、毒麦は芽が出て茎が育ち、実を結ぶ時まで区別がつきません。これが、サタンの姿です。羊の皮をかぶっているオオカミです。クリスチャンとよく似た姿で、似たように行動し、話、よく祈り、奉仕も熱心です。人々の目には、信仰深く、魅力的なのです
サタンはイエス様が蒔いた種が育たないようにやってきます。しかし、御国は妨害する勢力の中で成長していきます。イエス様は、私たちを愛しておられるからこそ、しばらく毒麦も保留にしておくことがあります。毒麦をすぐに抜けば、大切な麦まで抜いてしまうかもしれないからです。神様は、10本の毒麦よりも1本の麦を大切にされます。
世界を見ると、悪が支配し、勝利をしているように見えます。しかし、毒麦は、最後に火で焼かれます。 天の御国は、妨害する勢力の中で成長していきます。妨害のせいで、実を結ばないとは限りません。道ばたや石だらけやいばらの中では実を結びませんが、肥沃な地では実を結びます。肥沃な地には毒麦もありますが、それでも実を結びます。

3,からし種の成長
 最後に、短く天の御国の祝福を語ります。31節からのみ言葉です。
ある人が自分の畑に非常に小さなからし種を蒔きました。からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度であるとありました。本当に小さいですね。そして、そのからし菜はこのように雑草だということです。ところが、この種が生長すると、驚いたことに木になるというのです。
木になって枝が広がり、多くの鳥たちが来て巣を作るほどになります。
 このからし種からの譬は、何を言いたいのかといえば、
天の御国はすぐには大きくならないということです。天の御国は非常に小さく始まります。それが、最後にはすべての国が集うことのできるほど、大きな国になるのです。神の御国は、決してすぐには成長しません。神のみ言葉は、目に見えないところで継続して働くのです。幼かったイエス様が、知恵が進み、背丈が伸び、大きくなったように、私たちも少しずつ霊の人に変えられていきます。もっとも偉大なことは、大きなところからではなく、小さなところから始まるのです。
「あなたの初めは小さくあっても、あなたの終わりは非常に大きくなるであろう。」
           (ヨブ8章7節、口語訳)