2018年1月28日の説教要約 「イエスの最初のしるし(奇跡)」

2018年1月28日の説教要約
「イエスの最初のしるし(奇跡)」     村岡貞海牧師
ヨハネによる福音書2:1−11

中心聖句2章11節: 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。」

今日の箇所はイエスガリラヤのカナの結婚式で最初のしるしをなさったことが書かれています。
結婚式の舞台はイスラエルです。イスラエルでは1年の婚約の期間を設けて、やっと結婚をすることが出来ます。結婚式も盛大にしたそうです。新郎側が婚礼の準備をして、家の主として能力を見せる、大切な時でもありました。

ガリラヤのカナの地域は、小さな町で、皆親しい友人、知人のような者であり、町中の人々が招待されるので、小さい町のお祭りのようで、何日も続き、長い時は1−2週間かけて、行われたそうです。

1節「イエスの母マリヤは、そこにいた」と書かれています。新郎に近いものとして、手伝っていたのでしょう。さらには、そこに公生涯を始められたばかりのイエスと、その弟子たちが招待されていました。どんなに盛り上がっていたことでしょう。

そこに「ぶどう酒が足りなくなる」という大変なことが起きました。イスラエルの婚礼では葡萄酒は喜びを象徴されていました。お客さんが多くなり、長引いているなかで、ぶどう酒がたりなくなったのでしょう。たぶんマリヤは新郎に近い間柄だったのでしょう。母マリヤは新郎やその家族が困っているのをみて、どうすべきか考えたのでしょう。

母マリヤはイエスのもとに行き、『ぶどう酒がなくなりました」と告げます。そこにはマリヤのイエスへの信頼が見られます。

母マリヤは夫のヨセフが死んだ後、長男として大工として家族を支えたイエスに信頼とともに、受胎告知の経験やさまざまなことを通し、イエスに特別なものを感じていたのかもしれないです。

1、イエスの言う、私の時 
4節 「わたしの時」

マリヤはイエスにぶどう酒がない現実を話します。慌ただしい状況でした。ところが、イエスは「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか、」と話されるのを見て、今までと違うイエスを感じたと思います。そして、続いて「わたしの時は、まだきていません。」と話されます。

これはつじつまが合わない話のように思われます。何で相談しているのに、「わたしの時がまだきていません。」と言うのでしょうか。

マリヤも直ぐ問題を解決されることを望んでいたのに、わたしと何の係わりがありますかと答えられたので、その言葉の意味をもう一度、思い返して見たいと思います。

そして、「わたしの時はまだきていません。」と、わたしの時は、ヨハネ福音書に7回出て来ます。2:4、7:30、8:20、12:23、27,16:32,17:1「わたしの時は、まだ来ていません。」「イエスの時がまだ来ていなかったからである。」「イエスの時がまだ来ていなかったので」「人の子が栄光を受ける時が来た」「父よ、この時からわたしをお救いください。」「時がくるであろう、いや、すでにきている。」「父よ、時が来ました。」

エスは公生涯を神様が与えて下さるその時を覚えて活動されていました。

サタンはイエスの力を知っていましたので、石をパンにするように、高い所から降りなさい、国々を与えると誘惑しますが、イエスは退きました。

エスの時は、十字架の贖いの時であると知っておられたからです。

それは、公生涯を始められるイエスは人々の要求によって、ご自分を高めるために活動されるのでなく、神様の御心を行う為に、人々の救いの為に、神様の愛を伝える為に活動されることを話されていて、神様の御心を行う、キリストの贖い即ち、人類の罪を負い死んで蘇ることを意味しています。

2、御言葉に従う。

私たちは神様の御心を思いつつ、祈りつつ僕たちにイエスの言葉に従うようにお願いします。

例え不可能に見えることでも祈ることは大切ではないでしょうか。諦めるのでなくイエス様に祈るのです。イエスを信じる母の願いは強いと思いました。何を言われても信じて怯みません。

求め続けます。不可能に見える現実でも母は諦めず願いました。

ロシヤに行かれた、宣教師先生は諦めず祈り続けました。

マリアはイエスのこの言葉をもう一度思い巡らし、さらに一歩進み、僕らに頼みます。

「この方が、あなたがたに言いつけることは、なんでもしてください。」

エスは空になっている水がめに水を汲んでいっぱいにいれるように話されたので、その僕たちは水を入れて、従います。ユダヤ人のきよめのならわしに従って、おいていた大きな水がめに水が入ってなかったのです。

7節を見てください。「入れなさい。」

この水がめに水を入れなさいとイエスに言われ、その言葉に従って口の所までいっぱいに入れます。

8節 「さあ、くんで、持っていきなさい。」

持って行きなさい。イエスの権威ある言葉に従ったことでイエスの奇跡、しるしは起こりました。御言葉に従うことで、神様は奇跡、しるしを見せてくださいました。即ち、私たちがイエスを神様の子と信じて、祈り、御言葉に依り頼み、従順に従う時、神様の御心を成して行くのです。

3.水をぶどう酒に変える、イエスのしるしを見て信じた人々。

ここで奇跡のようなことを、何故しるしと書いているか少し見てみます。

しるしとは他と紛(まぎ)れないための心覚えや、他人に合図するために、形や色などを現すもの、抽象的なものを表すための具体的な形。 このしるしはイエスの神様であることを明らかにする証しでした。このようなしるしはいつも神様の栄光を現すものでした。 奇跡、しるしでもあると思います。

教会というしるしのサイン、表示板は教会ではないのですが、教会を示しています。

ヨハネ福音書には7つのしるしは水をぶどう酒に変える、王の部下の息子を癒す、38年の患者を癒す、五千人を食べさせる、水の上を歩く、目の見えない人を癒す、ナザロを生かすことを通して、イエスが神の子イエス・キリストを示すしるしです。ご自分が十字架で死に蘇られて人類を救う為に来られたと知らせてくれます。

エスの言葉は水がぶどう酒になったことの一回の奇跡で終わることではないです。イエスのその時になった時、神様の栄光が見える。十字架の栄光を通して、今の私たちも経験するしるしとなるのです。

8節〜11節 そのぶどう酒は先に出したものよりも良いものであったこと。水が今まで味わうことが出来なかった、最上のぶどう酒にかわりました。

奇跡を見たものたち9節では手伝ったものたちは知っていた(しもべたちはしっていた)。イエスの言葉に従うしもべたちは一生涯忘れることのない経験をしたのです。

11節 イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を表された。

エスは私たちに婚礼のぶどう酒のような喜びを与えるために、ご自分は十字架の受難の道を歩まれるのです。これが公生涯の始めのしるしです。

弟子たちはどうだったでしょうか?洗礼者ヨハネをとおして、イエスに出会い、弟子となったもの、兄弟に誘われてイエスのもとにきたもの、友達の紹介できたもの、直接イエスに出会いイエスをメシア、救い主と信じ告白したもの、歩き始めたばかりの弟子たちでした。この奇跡、しるしによって、弟子たちは神の子であるイエスを信じました。

その方の十字架の受難によって、私たちは罪赦され、救われ、信じる者に新しい命が与えられました。そのことこそが、奇跡です。

わたしたちのうちに聖霊が宿り、主の栄光を表すものとして今年も歩んでいきましょう。信じ、従うとき栄光が表されました。

私たちも諦めず願い祈りましょう。水をぶどう酒に変えられる、神様の時を救いの時を信じて、神様の栄光を見る為に見上げつつ、イエス・キリストは予期せぬ困難がある人生に救いの贖いの喜びを与えてくださいます。