2018年1月21日の説教要約 「被造物を自慢する神」

2018年1月21日の説教要約
  「被造物を自慢する神」  中道善次牧師
ヨブ記 1章6〜8節

「被造物を自慢する」説教を外国で行った。「〜を誇りに思う」という英語の表現「アイ・アム・プライド・オブ・ユー」を使いました。
私はこの言葉を、ある指導者の先生からかけていただきました。うれしい褒め言葉は、一生忘れません。
今日はヨブ記の中から、私たちのことを自慢する神、ご自分の作った動物を自慢される神の姿を共に学びたいのです。

① ヨブを自慢する神:サタンに対して
ヨブ 1:1に記されているように、ヨブは、非の打ち所のない人であった。
ヨブは子どもたちのためにも、「もしかしたら」と考えて罪の赦しの犠牲を献げていました(ヨブ1:5)。
そして不思議な記述が、ヨブ1:6〜8に記されています。
ここに出てくるサタンは、人間を監視する役目を持っています。
サタンとの対話する中で神様はヨブのことを自慢しています。
親ばかともいえる神の姿がここに描かれているのです。ヨブをほめ、自慢しているのです。
それに対してサタンは反論するのです。ヨブ1:9〜11
ヨブの訴えの内容は、神が豊かにヨブを祝福しており、すべてのことが上手くいっているのだから、敬虔な信仰を持っているだけなのだ。
サタンは、ヨブを自慢する神を挑発するのです。
そして第一回目の悲劇が起こるのです。
神の許可のもとに、サタンの攻撃が始まりました。ヨブの財産が奪われ、子どもたちが死んでしまうのです。
それでもヨブは固く信仰を守り通したのです。それが1章の有名な言葉です。
ヨブ 1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。
ところがしつこいサタンは、もう一度、ヨブのことを自慢する神様を挑発するのです。それがヨブ2:1〜3です。
サタンは、自分が健康だから罪を犯さなかったのだと訴えたのです。そして今度、ヨブは重い病気にかかってしまうのです。そこでも神から幸いを受けるのだから災いも受けるべきだと答えるのです。
私たちがここで受けとめるべき第一のメッセージは、神は、ヨブをほめたように私たちをほめて下さるのです。

② 被造物を自慢する神:ヨブに対して
3章から長い議論が始まります。それが31章まで続きます。
その議論の後、エリフという若者が登場します。そして38章から、神が登場なさるのです。
ヨブ 38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
神は、ヨブに対して、幾つもの問いかけをなさるのです。そしてご自分が作った動物についても、語り始め、やがて、ご自分の作った奇妙な、おもしろい動物を自慢し始めるのです。
まず出てくるのが、ダチョウです。(ヨブ39:13〜18)
知恵のない鳥です。空も飛べません。子育てもちゃんと出来ず、卵を放置するのです。しかしそのダチョウを、神はほめるのです。ダチョウは足が速いのだ。馬よりも速く走るのだ。
さらに、ベヘモット(口語訳ではカバ)をほめるのです(ヨブ40:15〜19)。
カバはすごい筋肉で、川が荒れでも大丈夫だ。こんなにすごい動物を私は造ったのだ。
最後はレビヤタン(口語訳ではワニ)をほめるのです(ヨブ40:25〜41:4)
ワニを捕まえてペットに出来る人はいない。固くて美しい皮を持っている。神はワニをほめるのです。
ダチョウもカバもワニも、変な動物です。神は言うのです。こんなすごい動物を私は造ったのだと自慢するのです。
ご自分が作ったものを自慢する。それが聖書の神であります。

③ ヨブをほめる神:友人に対して
ヨブは、ご自分の手で作った人間や動物に対する神のいつくしみ深い心を知って、悔い改めたのです。(ヨブ42:5〜6)。
悔い改めたヨブに対して神は言うのです。お前は「私について正しく述べた」と。
ヨブ 42:7 ・・・エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについて私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
そしてヨブは変わったのです。どのようにヨブが変わったのだ。それをウイリアム・ブレイクという画家が版画で描くのです。
イリアム・ブレイクの「ヨブ記」の第1図: ヨブとその家族 『ヨブ記』1:1〜3
子どもたちはまだ幼く、聖書を開いて真面目な顔をして家族が集っている。
真面目だけれども、おもしろみのないヨブが描かれているのです。
イリアム・ブレイクの「ヨブ記」第21図:繁栄を回復したヨブとその家族 『ヨブ記』42:12〜13
家族みんなが楽器を演奏している。ヨブも竪琴をひき、にこやかな顔をしている。成長した子ども達と一緒に楽しんでいる姿が描かれています。
神が、自分たちを自慢して下さるように、ヨブもまた子どもたちを自慢して、一緒に楽しむようになった。
神様にほめられている自分を自覚し、私たちも周りの人々を、おおらかな眼差しで見たい。