2018年1月14日の説教要約 「あなたがたは世の光」

○2018年1月14日の説教要約
『あなたがたは世の光』               中道由子牧師
《あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。》
           (マタイによる福音書5章14〜16節)

 1、暗闇を照らす
光の役割は、暗闇をさらけだすことです。光がなければ暗闇が暗闇であることがわかりません。イエス様は、ヨハネによる福音書8章12節で「私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。
姦淫を犯した女の赦しの後、イエス様は「私は世の光」だと言われたのです。私たちも真っ暗な中、方向がわからない人生を歩いていました。イエス・キリストが私たちの人生に入って来られる前までは、自分が暗闇の中で生きていることを知らずにいました。イエス・キリストの光に照らされて、どのように歩いて行ったらよいか知りました。これが光の役割です。イエス様は世の光として来られ、すべての暗闇をさらけ出し、追い出されたのです。
マタイ4章16節で、イエス様が世に来られたことが光として表現してあります。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 光はどこからきたのでしょうか。「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1章4節)
エス様の光は、イエス様の命の中から来ました。命があるところに光があり、命があるところに復活があるのです。
エス様は「私は、よみがえりであり、命である。」と言われました。これが、主イエス・キリストが持っている光です。主は、死と暗闇を裂き、復活と光を携えて来られました。そして、「私を信じる者はもう暗闇を歩むことがない。」「あなたがたは世の光である」と言われたのです。主は、私たちに期待をよせて下さっています。
 5節後半に、その私たちが立つべき場所がかかれています。「山の上」です。旧約では、山と言えばシオン、町はエルサレムです。主に礼拝を捧げるところです。主を礼拝した民を、主はここからこの世に遣わしてくださるのです。
「山の上の家は、隠れることができない」と書かれています。光は隠れていないで、光は輝かなければならないのです。

2、燭台の上の灯り
15節にある升は、約10キログラムを計る計量升です。ランプを灯して、大きな升をかぶせるようなことはしません。灯は、燭台の上に置かれ、家の中のものをすべて照らしてくれます。光が何のためにあるかと言えば、暗い所に光を投げかけて照らしてあげるためです。高い所に置かれるのは、それだけよくまわりを照らすためです。その光がやたらに明るくて、人の目がくらむようなら、それは光の役を果たしません。高い所に置かれるのは、それだけよく回りを照らすためです。私たちが生かされ、照らすことによって、他者が生きていくことができるためです。
光を発することが出来ない時は、二つのことを点検してください。
① 光の源である神様としっかりとつながっているかどうか
② イエス様と繋がっていても、部品が切れたり、または燃えてしまっていては、光を発することはできません。道徳的な品性が整ってはじめて御霊の実を結ぶことができます。

3、 人々が天の父をあがめるように
16節「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」
八福の祝福をいただいている私たちが世の中にいる、ということです。人々との垣根を取り払い、一緒にいるということです。「あなたがたのよい行いを見て」とあります。人を引き付けるような美しい行いはなくても、私たちには、救われた恵みがあります。私たちは、その恵みを証し、伝えることができるのです。