2022年7月17日の説教要約
「わたしは世の光です」 中道由子牧師
《イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」》
1.罪のない者が石を投げなさい
イエス様はオリーブ山へ行き一夜を過ごした後、朝早く宮である神殿に出かけました。
その時、待ち構えていたかのように、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた一人の女を連れてきて言いました。
8章4,5節「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
これは奇妙な話です。レビ記20章には「姦淫をした者は両者とも死刑」と書かれています。両人が引き出され、処刑にされます。この場合、相手の男はどこにいるのでしょう?
現行犯である限り、現場を目撃して捕らえたはずです。
それなのにイエス様の前に連れて来られたのは、男より弱い立場の女の方だけでした。
不自然な、何か陰謀の匂いがします。
彼らの意図がイエス様を試して告発する理由を得るためであったと記されています。
女はそのための格好の材料として、主イエスを陥れるわなとして使われたのでした。
これは実に綿密に練られた計画でした。
もし主イエスがこの女を石打ちにせよ、と答えれば、ローマの法律を無視することになります。一方、イエス様が石打ちにするなと答えれば、モーセの律法を無視したかどで訴えられてしまいます。
結局、どう答えてもイエス様を訴えることができるように仕組まれているのです。
彼らは勝利をすでに手中に収めたかのようでした。
彼らが答えを迫っても、イエス様は微動だにせず、無言のままでした。
彼らの計画表には「イエスの無言」という予定はなかったのです。
やがてイエス様は立ち上がり、口を開いて言われました。
7節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
それだけ言うとまた身をかがめ、地面に指で何かを書き続けられたのです。
私自身難しい内容に答えなければならない時、焦ります。焦るといいことがありません。
そんな時、この地面に文字を書いておられたイエス様のお姿を思い出せるようにしたい。
主イエスのこの一言で両者の立場は逆転しました。
イエス様を断罪しようと画策した律法学者やファリサイ派の人々が、逆に主イエスの言葉で裁かれることになったのです。
2.わたしもあなたを罪に定めない
主イエス様の言葉を聞くと、人生経験の多い年長者から一人一人いなくなりました。
自分こそこの女を罪に定めるという者はいなかったのです。
そこには姦淫を犯してしまった女とイエス様だけが残されたのです。
彼女は、恥ずかしさと恐ろしさで震えていました。
訴える者たちは彼女の恐れや痛みなど考えることもなく、人々の前にみせものにしたのでした。しかし、ここで私たちが立ち止まって考えたい。
私たちは人の苦しみをエサにして誰かを陥れたりはしないかもしれない。
けれども、私たちの人間関係は利害のバランスの中で保たれている場合が多いです。
訴える側でないにしても、自分が守られるために黙って見ている群衆、誰もこの女の側に立とうとしない、自分もその中の一人なのだと思えることがあります。
主イエス様は、罪ある者の前に立って、「わたしもあなたを罪に定めない。」と宣言された。これが福音であり、恵みであります。
この宣言には、主の十字架に現わされた神の御子としての無限の愛が示されています。
イエス様は決してこの女の罪を見過ごしたり、軽く扱ったわけではありません。
ましてや彼女の罪を是認なさったわけでもない。
ただその罪の裁きを彼女の上に置かないで、ご自分の身に負うことによって、「わたしもあなたを罪に定めない」と罪の赦しの宣告をされたのです。
また、今もそういうお方として私たち一人一人と向かい合っておられます。
主イエスの十字架を通して示された神の愛。この愛だけが人を新しく作り変えることができるのです。「行きなさい。もう罪を犯してはならない。」そう言って、イエス様はこの女を新しい人生へと出発させました。
3.わたしは世の光
7章2節で、この出来事が仮庵の祭りの時に起きたことが分かります。
仮庵の祭りの初日の夕刻になると、人々は神殿の婦人の庭に下っていき、四つの大きな背の高い黄金の燭台に油を注ぎ、火をつけ、灯がともされる。
これが仮庵の祭りの頂点で、その火を囲んで一晩中踊り歌うのです。
その強い光はエルサレムの町を明るく照らしたと言われています。
それは、はるか昔旧約の時代にエジプトの奴隷であったユダヤ人が。出エジプトの時、荒野を旅する彼らのために神は毎夜、火の柱を備えてくださった。
仮庵の祭りは、その火の柱を記念するものでした。
そのような中で、主イエスは、12節「わたしは世の光である。」宣言された。
わたしこそが荒野を導いた火の柱である。目の前のエルサレムの町を照らす光は、いかに明るく輝き渡ってもやがて消えていく光に過ぎません。
イエス様はそのような一時の光ではなく、輝き続けて、永遠の命に至る、不滅の光です。
この光に従う者は、決して闇の中を歩くことはなく、命の光をもつのです。