2018年2月4日の説教要約 「わたしが来たのは」

○2018年2月4日の説教要約
『わたしが来たのは』               中道由子牧師
《わたしが来たのは、律法や預言書を廃するためだ、と思ってはならない。廃するためではなく、完成するためである。》
                          (マタイによる福音書5章17〜20節)

 入試の季節を迎えました。
聖書学院にも入学試験があります。国語、英語、聖書のテストを受けます。聖書はこれから勉強するのでできなくても仕方ない思いで受けました。その時の問題で忘れられない問題が、「マタイによる福音書の中心聖句を記せ。」というものでした。もうさっぱりわかりませんでした。そして、1年生になって、マタイによる福音書の中心聖句は、この5章17節だということがわかりました。今日も3つのポイントからお話します。

1、 律法と預言者
  マタイによる福音書は、誰に対して書かれたかと言いますと、「ユダヤ人」に対してです。マタイによる福音書には一貫してイエス様が「王」であることが貫かれています。王なるキリストです。
ですから、マタイ1章は、系図から始まっています。これは、アブラハムから始まり、ダビデ王に繋がっていきます。王の系図でもあります。また、イエス様がお生まれになるクリスマスの記事でも、東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と訪ねて来ている記事も、マタイによる福音書です。
そして、イエス様が十字架に付けられた、その十字架には「ユダヤ人の王」と書かれていたのです。 このようにマタイにはこだわりがあるのです。
 ユダヤ人はこの王なるお方が、自分たちを救ってくれるメシアではないかと待ち望んでいたのです。彼らが信じてきた旧約聖書は、律法と預言書で成り立っています。その律法と預言書を成就させて下さるメシアなるお方をずっと、ずっと待っていたのです。マタイはこのイエス様こそ、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアだと紹介したのです。
神様がモーセを通して与えた律法が、5章の21節から6つ書かれています。
律法とイエス様の言葉とを対比させて書かれています。イエス様は、「あなたがたもきいているとおり、〇〇」と語られた後、旧約の律法を引用しておられます。
21節、腹を立ててはならない。→祭壇に供え物をする時、誰かが自分に反感を持っているのを思い出したら、その人と和解しなさい、と言われました。
27節、姦淫してはならない。→右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい、と。
31節、離縁してはならない。→自分の都合によって妻を離縁することは罪であることを、示されています。
33節、誓ってはならない。→誓いどおりに出来ないのが、人間です。神がおられる天に向かってよって誓うことは出来ません。
38節、復讐してはならないです。→誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい、と言われました。
43節、敵を愛しなさい。→ ユダヤ人にとって隣人とはユダヤ人同士でした。敵とは異邦人のことでした。神様はユダヤ人にだけ太陽を昇らせ、雨を降らせる不公平なお方ではない。あなたが憎んでいる人にもこれは公平である、と。

いかにパリサイ人や律法学者が律法を自分たちの都合がいいように解釈しているかわかります。
私たちはどうでしょうか?
19節に、「だから、これらの最も小さな掟をひとつでも破り」とありますから、掟の中に、大きなものと小さなものがあるのでしょうか。律法は大まかに、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と第二の戒め「あなたの隣人を愛せよ」の二つから成っています。神に対する第一の戒めが「大きな掟」で、人に対する第二の戒めは細かくて、「小さな戒め」とされています。つまり、今まで見てきた中で「誓ってはならない」だけが第一の戒めで、それ以外は第二の戒めに入ります。イエス様は、人に対する小さな掟も大切にされました。
神に向かう姿勢は人に対する姿勢に反映するのです。
マタイ7章12節 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

2、 すべてが成就した
 18節に「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とあります。「一点一画」というのは、ヘブル語で使われる小さな点や小さな画のことです。
 この一点がなくなっても、一画がなくなっても大きく意味が違ってきます。神様の律法も預言書も「天地が消え失せるまで」なくなることはない。変わらないと言うのです。この一点一画さえも変わらない。時代が移り変わり、人の服装やヘアースタイル、食べ物や家の形が変わっても御言葉は絶対変わらない、なくならない。なぜなら、イエス・キリストによって成就した、完成したからです。主は十字架の上で「すべてが成就した」「すべてが完成した」と言われました。私たちがしなければならないことなどありません。いえ、できません。ただ、主が成して下さった御業ゆえに私たちは天地が失せ去っても、変わらない御言葉に支えられ生きて行けるのです。

3、 完全な義をいただく
 20節に「よく言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とあります。
エス様は御言葉が違うのではなく、彼らが旧約聖書の神の御言葉について間違った認識と偏見を持っているのだと指摘されました。マタイによる福音書6章には、施しをするときには、祈るときには、断食をする時にはどうするか書いてあります。
 施しをするときは、律法学者ファリサイ派の人は、見てもらおうとして、人の前で善行をしていたのです。それに対して、イエス様は、「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはいけない。隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる」と言われました。
祈るときは、彼らは人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる、と。そんな人はいませんね。でも私たちも、人前で祈るときは人目を気にします。どこにあっても天の父なる神様に私たちの心からの祈りがとどけばいいのです。イエス様は、「あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。隠れた私たちの思いを主は受け取って下さいます。そして報いて下さるのです。人目を気にして飾る祈りも必要ありません。主は私たちの本音の祈りを待っていて下さいます。
 最後に、断食をするとき、律法学者やファリサイ派の人は「断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」ようです。イエス様は「頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」と言われました。隠れたことを見ておられる父なる神が報いてくださる、と。
 律法学者、ファリサイ派の人は、神に人に自分の義を認めてもらいたかったのです。
皆、私たちも自分のしていることを認めてもらいたいのです。イエス様は、私たちの行いが神に喜ばれるように、報いを直接人からではなく、神様からいただくようにと教えておられます。
 ローマ信徒への手紙10章4節(口語訳)
「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。」
  この律法の義をイエス様が十字架の上で完成して下さった故に、神様は私たちを天の国で大いなる者として、迎えて下さるのです。