2018年2月11日の説教要約 「明日のことを思い悩むな」

〇2018年2月11日 「明日のことを思い悩むな」 中道由子牧師

≪だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。≫   (マタイ福音書6章25〜34節)


新年会で、ミャンマー人の婦人の方が分かち合いをされたことが心に残りました。ミャンマーでは、その日その日が暮らしていけたらそれでいい、という暮らしだそうです。子どもたちも優秀な子は大学まで行きますが、費用もそれほど高くないようです。ところが、日本では中学生は高校受験のために塾に行かなければついていけない。そして、一人の子どもを大学まで出すとなると、貯えが必要となります。考えさせられました。

1、 空の鳥を見なさい
鳥は、人のように種蒔きをして、肥やしをまくなどの農業をしません。ただ自由に飛び回りますが、神様は宇宙万物に満たされた自然の豊かさを通して、彼らを育てておられます。ルカによる福音書(12章)の並行記事では、この鳥のところが「烏(からす)」になっています。カラスをどこで見るかと言えば、たいがいゴミの日です。自然主義者の話では、「カラスはその雛の羽が生え揃って飛び立つまで餌を与えるが、その後は巣から雛を追い払い、雛たちが自分で住みかが得られるようにする」のだそうです。カラスは驚くほど厳しく、それを行うのに過酷なことをするそうです。その雛たちが自分で餌を得られるようになるやいなや、これ以上彼らのために餌をとっては来ることはしないそうです。この幼いひな鳥が巣から初めて飛び立つとき、餌を自分で得る方法にまだ慣れていないので、天の神様が彼らを養って下さる、というのです。カラスは鳥類の中では知能は高い方です。
ノアの箱舟の話しにカラスが出てきます。洪水後の外の様子を探るために箱舟から放たれたのが、カラスでした。また、ケリテ川のエリヤに食物を運んだのもカラスでした。天の父なる神様はカラスを養い、用いておられます。カラスの世話をされる神が、皆さんを愛されないでしょうか。人は皆、神にかたどって造られ、神様の愛の対象であります。
 ただ、飛ばずにじっとしていても、口に餌は入ってきません。飛んで、餌を捕まえ、食べなければならない。神は人間に頭脳、健康、意欲、夢など働くことのできる要素を与え、食べて生きていくことができる能力も与えられたのです
 27節で「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命を「わずかでも」のばすことが出来ようか」とあります。そして、ルカによる福音書のほうでは、「そんな小さな事も出来ないのに」と書かれています。寿命を延ばすことを小さな事といっているのです。それは、神様の分野であり、神から見れば、まことに小さいことなのです。
私は還暦同総会に出席しました。50代で亡くなっている人もいました。なんとも言えない寂しさを感じたことでした。命について、私たちは自分がどうにも出来ないことに謙虚にならなければいけないと感じました。これは、神様の分野なのです。

 2,野の花を見なさい
 食べること、飲むこと、着ることは、生きていく上でなくてはならない大切なことですが、それ自体が私たちの理想や目標ではありません。しかし、私たちは、知らないうちに、食べて、飲んで、着ることを非常に大切な問題として生きています。どんな家に住むのか。どんな洋服を着ているか。それによって、自分の身分と地位が決定されると考え、知らずにそれらを追い求めている人もいます。そのために、一流のレストランやブランドの服を求めて歩き回るでしょう。豪邸に住み、高級車を所有しようとします。「これが成功の証しだ」「これこそが幸せの証しだ」と思います。しかし、この段階に来て、必ず、心配がつきまといます。栄華を極めたソロモンも、コへレト信徒への手紙で「すべては空しい」と書いています。
主はガリラヤの野で語られたのであれば、そこに咲いている花を指しながら話されたのでしょう。 ルカによる福音書の並行記事では、野の花とあり、多くはゆりの花にたとえられています。パレスチナに咲く野のゆりは一日だけ花が咲くそうです。一日だけの命の花にもソロモンが持つことの出来なかった栄光を帰させてくださるのです。栄華を極めたソロモンの服装は、いかに豪華で高価であっても人の手の業です。私たちは、美しい風景や花を見て、写真に撮ろうとします。専門家はそのままの色合い、周りの様子を駆使して表現しますが、目で見ているように写真に撮れないと思います。神様の自然界を飾る美しさ、麗しさに疲れが癒やされることが度々あるものです。ここに書かれている美しい花は、はかないのです。草は花よりも役に立ちません。刈ったら、明日は炉に投げ入れられ焼かれてしまうのです。それでも、神はその美しさを減らすことはなさらないのです。
詩篇103篇14〜16節にこのようなみ言葉があります。
「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵に過ぎないことを御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。」
草や花をお守りになる神様は、同じようにはかない私たち人間も顧みてくださいます。

3、心配の代わりに求めなさい
31節に「だから、『何を食べようか』、『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」とあります。32節に、「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と書かれています。 心配は神様を信じない人々、異邦人の特徴です。神がいない人には、存在に関する究極的な不安があります。死んだ後についての答えがないのは、生きることにも答えがないということを意味します。その人には、相対的な価値はありますが、絶対的な価値がありません。相対的な問題に答えられても、絶対的な問題には答えることができません。その人の中には神がいないために、未来についても不安で、手の中にお金や権力があれば安心しますが、それらがなくなると、すぐに心配し、不安になります。
絶対的真理には信仰が関係します。信仰がなければ、すべて不安になります。
私たちが心配せず、希望をもって積極的に生きる目的と理由は、33節にあります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの者はみな加えて与えられる」とあります。「まず」とは、「第一に」ということです。
ここにこそ神に委ねる道があるのです。クリスチャンがすることは、心配する代わりに求めることです。神様は私たちの天のお父さんなので、このお方に求めるのが確実なことです。誰よりも私たちのことに関心があり、誰よりも私たちのことを心配してくださっているお方に求めるのです。親は子どもを生むと、子どもの計画を立てたりします。神は、私たちが信仰を持ったときから、イエスの姿に似るまで、私たちのために段階的なご計画を持っておられます。神は、私たちの結婚にも、大学入試にも、仕事にも大きな関心を持っておられます、その関心は親よりも深く大きいのです。
求めましょう。マタイによる福音書7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とあります。クリスチャンは心配する人ではなく、積極的に現実と未来に向かって走って行き、門を叩く人です。そのためには、神様を信頼する信仰が必要です。
「神様が約束してくださったのに、なぜこんなことになるのだろうか。なぜ私の人生はこんなにみじめなのだろうか。なぜ私の人生は悩みでいっぱいなのだろうか。」と思われるでしょうか。神様が私たちに関心が無くて私たちを養われないのではありません。私たちが神様を信頼していないからです。
旧約聖書に頑強なエリコという町を攻める時、ヨシュアは神様からその周りを6度回り、7回目は7度回ってラッパを鳴らすようにいわれました。エリコの城壁を6度回ったときまでは、何の変化もありませんでした。それが、信仰の現実です。しかし、7度回ると、城壁が崩れました。
ツァラアトに犯されたナアマン将軍がヨルダン川で7度身を洗いなさいと言われました。6度目までは何の変化もありませんでした。その時、人は不安になり、心配し、恐れます。それが信仰の現実です。しかし、信仰を持って7度目に入ったとき神は約束通り答えてくださいました。ナアマン将軍は癒されたのです。神を信じると奇跡が起きます。

4、  明日は神のもの
どれほど多くの人が明日の事を心配して悩んでいることでしょうか。明日とはどんな意味があるのでしょうか?まだ未知で、わたしたちにはわからない世界のことです。明日のために心配してはならないと言うこの言葉には、
一つ目には、「明日は私たちのものではなく、神のもの」だという意味があります。
二つ目は、「明日は神のものだから神に明日を委ねなさい」という意味です。
つまり、明日のことを心配しながら今日を生きるなら、明日は心配になります。明日を神に委ねて今日を忠実に生きるなら、神様が明日の祝福を約束してくださいます。